平成29年 (2017年)会員37名

  329  長尾の里巡り・桜(東高根森林公園)

  405  元町から本牧山頂公園・はなフェスタ

  419  藤沢宿を歩く

  510  舞岡ふるさとの森

  524  旧東海道東戸塚

  614  相模原公園・麻溝台公園

  628  称名寺と金沢文庫

op  8月 9  :工場見学 (京急大師線鈴木町駅 味の素工場)+川崎大師

  906  大森貝塚遺跡

  920  品川宿を歩く

⑩ 1004  池辺市民の森

⑪ 1101  港北を歩く (妙蓮寺-菊名)

⑫ 1115  下飯田-

⑬ 1129  都筑区の紅葉

2017年の散策ガイド

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①-1長尾の里(ガイド鈴木)0329.pdf
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①-2長尾の里巡り 資料0329.pdf
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②-1横浜はなFと桜ガイド0405 (1).pdf
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横浜はなフェスタと桜を満喫するコース資料.pdf
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③-2藤沢宿散策ガイド.pdf
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④舞岡公園散策ガイド.pdf
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⑤戸塚宿ガイド.pdf
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⑥-1相模原公園ガイド.pdf
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⑦金沢八景から称名寺.pdf
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⑧大森―大井町散策ガイド.pdf
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⑧考古学発祥の地・大森貝塚資料.pdf
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⑨大井から品川宿の散策ガイド.pdf
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⑩池辺市民の森 散策ガイド.pdf
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⑫下飯田散策ガイド (1).pdf
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⑬都築工場と緑道T (1).PDF
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2017年 第十三回  焼却工場見学と都築区の紅葉を散策する

 ◆催行日:20171129()0930 : 地下鉄都筑ふれあいの丘集合

この日は、気持ち良く散策できる小春日和でした。

◆散策コース:都筑ふれあいの丘駅→横浜市資源循環局都筑工場(見学1時間)→葛が谷公園→大原みねみち公園→自然生態園→茅ヶ崎公園→せせらぎ公園→仲町台駅

市営地下鉄・都筑ふれあいの丘駅から最初に向かったのは、横浜市資源循環局都筑工場です。

 この工場は、都筑区内を歩くと何処からでもブルーと白に塗られた煙突が見えます。この煙突は初め赤と白の縞模様だったのですが、2011年に塗り替えられたです。また、煙突は、都筑区のどこを歩いていても見えるのでシンボルと言えます。  

 我々「つづきナビ倶楽部」も、何度も市営地下鉄・都筑ふれあいの丘駅を出て工場前を通り東方公園や東方農業専用地区、川和富士などを訪れていました。不思議なことに中を見学したことは一もありませんでした。会員たちは、大変興味を抱き、2階の説明会場に入って行きました。

 説明によりますと工場は次のような内容になっています。

 都筑工場は都筑・青葉区と港北・緑区の一部のごみを回収します。一日に回収するのは約、トラック600~700台で800~1000トン、処理は400トンと言われています。そのゴミを焼却炉で燃やした熱を利用して発電。工場内部、市民プール・福祉センターに電力を供給、近隣の温室の熱源にもなっています。

 実際にごみビートからクレーンで焼却炉内に投下する様子を見学しましたが、その凄さに目を見張りました。何しろクレーン1掴みのゴミ量は6トンもあるのですからね。

 工場を出て後ろを見ますと、工場を背に太陽が輝いていました。それを背に右に進み横断歩道を渡り、左に行きますと「葛が谷公園」に出ます。

 芝生広場には、冬の日差しを受けて、幾組もの親子がボール蹴りを楽しんでいました。広場には石のパーコラの方位石を兼ねたストーンファニチュアがあり、遺跡の雰囲気を感じさせていました。

 

 赤く染まったモミジ、黄色に色づいたケヤキやカツラを観賞しながらささぶねの道を進みます。目の前に空に向かってそびえたつ黄金色に染まった欅が目に入ります。その先には、10本近い黄金色のケヤキが並び、そのままの姿がせせらぎの水に映し出されていました。カモの親子との紅葉、それは目を見張る美しさでした。

 「せせらぎの道」「自然生態園」「茅ヶ崎公園」にはケヤキ、イチョウ、コナラ、ブナなどがそれぞれ違う黄色が、モミジ、ドウダンツツジ、ニシキギ、ヒメシャラなどの紅葉がある中、さざんかが真っ赤の花を見せていました。

 「自然生態園」は、広さは3haほどのですが、湧水が流れ込むため池、雑木林のある山、谷戸川などがあり開発前の都筑を感じさせます。

 「茅ヶ崎公園」は芝生広場、樹林地、自然生態園などそれぞれ特色あるエリアがあり、自然や散策を楽しむことができます。

 赤と黄色の葉で造られたじゅうたんのせせらぎの道を進んで行きます。視界の先に現れたのは、さまざま木々の紅葉・黄葉と落ち葉で敷き詰められた絨毯の広場でした。柔らかいクッションの上を気持ちよさそうに走りまわる子供達。追い掛けるお母さん。思わず微笑んでしまいました。

 

前に進みせせらぎ橋を潜り、最後の目的地「せせらぎ公園」に到着しました。池の畔にある桜の葉は、全て葉が落ち丸坊主。楽しみにしていた桜の紅葉は、観られませんでした。残念と言えばせせらぎ公園の池が、掻い堀り(かいぼり)がされていました。

 今回は、17年ぶりで水質浄化や外来種の駆除、増えすぎたスイレンの除去等を目的としています。正常に戻るのは、正常に戻るのは、2018年2月だそうです。都筑区で最高に美しい紅葉を堪能し12時30分、古民家前で解散しました。

 

2017年 第十二回 秋の下飯田を散策する

◆散策日20171015日(水)午前9時30分 (市営地下鉄・下飯田駅改札口集合)

                    朝、家を出掛ける時は、曇り空でしたが、散策を始めるころには晴れ間が出て気持ち良く歩きました。   

 

◆散策コース:下飯田駅和泉川第六天神社蜜蔵院下和泉鯖神社天王森泉公園(境川遊水地公園)東泉寺・琴平神社富士塚公園

      ⇒下飯田駅(解散)

 

駅前の正面を走る通りの信号を渡って細い道に入り、直進します。畑と住宅が混在する中を東に下っていきます。正面に大きな森とその上を走る鉄塔が見えてきます。300m程下って自動車道を横切ると和泉川にぶつかります。

 

和泉川は、泉区を南北に縦断し、総延長約11㎞の二級河川。「瀬谷市民の森」の湧水を源流とし、和泉三家から下和泉を流れ、戸塚区俣野町で境川に合流する。(境川遊水地公園)流域の水田を潤し、住民の生活と子供たちの遊び場としても重要な川であり、今でも和泉川親水広場、和泉川・地蔵原の水辺として親しまれています。

 

 

川沿いの遊歩道を右に200m程行ったところ(四谷橋)で川を渡り右に、50m程先で遊歩道と別れ左折します。そして100m程先の信号を渡ります。右側にスズキ自動車販売店があります。少し直進すると左手に「第六天神社」が現れます。

 

 第六天神社は、何時ごろからお祀りされたのか分りませんが、古い歴史を持つ神社であるとの伝承があります。祭神は天神第六代の「おもたるのみこと」「かしこねのみこと」の二柱。延宝年間(16731680)に領主の松平五郎兵衛甫昌が当社を崇敬し、たびたびお参りしたという。神社の東側に酒湧池と呼ばれる泉があり、孝子伝説(神奈川県昔話集)が伝わっている。伝説によると、池の近くに住む孝子が、池の水を樽に汲み取って父に飲ませていたところ、ある日、里人が樽をさげてきた孝子に、「何処から酒を買って来たのか」と尋ねた。孝子は、「この山奥の池の水がうまい酒であるので、汲み取って父に飲ませている」という。里人は大いに喜んで、大樽に汲み取って金儲けをしてやろうとしたところ、その酒はたちまち、ただの水になってしまった。里人が孝子に会ったという橋を、今でも「樽見橋」と呼んでいます。

30段ほどの階段を上ったところに社があります。社の裏手に出て坂を上り、右手の竹藪を下った所に「酒湧の池」があります。

 

元来た道に戻り、左へ行くと左側に「樽見橋跡」の碑があります。そこから500m程前方に広い道が走っていますが、その手前を左折します。軽い坂を上ると右手に老人ホームがあります。その建物に沿って右折、また直ぐ右に回り込むと「蜜蔵院」の境内に出ます。まず立派な藁ぶきの鐘楼が目に飛び込んできます。季節でしょうか、本堂の左右に立派な菊が供えられています。

 

  密蔵院は、下和泉に在り、鎌倉青蓮寺の末寺。本尊の不動明王は天台真言の碩学の僧願行上人の作であります。開山は祐海法印。祐海法印の遷化は天文141210日といわれ(1545)、寺の開創はそれ以前と考えられます。

 

 境内には、貞和3年(1347)銘の板碑があり、門前に文政4年(18213月吉日建立の「ア南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれた木食観正碑がある。四国八十八ヶ所巡りもある。また、本土空襲が激しくなってきた昭和19 年から20年には学童疎開を受け入れていた。(戸塚国民学校初等科3年~6年)ハクモクレンは有名で、3 月彼岸の開花時には多くの参詣者の目を楽しませているのです。

 

境内を出た所にバス停(宝蔵院前)があります。右に進みます。すぐ先の「鍋屋」の信号を渡り直進、道なりに折れ曲がりながら元来た方向に進みます。右に用水路を見ながら進むと左手に「鯖神社」が現れます。

 

鯖神社は、和泉川沿いに見られるサバ神社の一社です。(横浜、八王子、藤沢に12社あるといわれている)祭神は左馬頭源満仲。

 

和泉町の一番南の地域、下和泉下分の鎮守さまで、慶長年間(15961614)に当地の郷士清水・鈴木両氏が氏神として勧請したと伝承されている。元禄2 (1689)に社殿修復の棟札が残されています。また天保7 (1836)5 月に、神祇管領占部朝臣吉長がお参りをして「鯖大明神」の額を奉納しているのです。

 

 道なりに右に進みます。車道に出て左折します。するとすぐに「天王森泉公園」の入り口があります。中に立っている「天王森泉館」でしばしの休憩をしました。

  天王森泉館」は、明治445月(1911)に清水一三氏によって興された清水製糸場の本館として建設されました。その後、昭和6年頃に本館の左側半分が約500m北から現在の敷地に移築されました。個人の在宅として利用されていたが、平成9(1997)の公園整備に際して、製糸場本館当時の姿を再現し、「天王森泉館」として名づけ拠点施設として活用しています。

  清水製糸場は、大正7(1918)には釜数128を誇り、神奈川県下45社中の5番目の規模の製糸場。和泉川沿いには豊富な湧水を生かして20に上る製糸場が営まれ、中和田村(現在の泉区)には市内最古で規模も大きい持田製糸場をはじめ8社がありました。しかし、大正時代にピークを迎えた製糸産業は関東大震災(1923)や大恐慌(1929)で打撃を受け、戦後はナイロンの開発も重なりその勢いは急速に衰えたのです。

 

館を出て左へ、少し先の自動車が走っているところまで行き右に入ります。遊水地運動公園があり子供たちが元気に野球に興じていました。この場所は境川と和泉川との合流地点でその中州の広場が公園となっています。その先の情報館に入ります。すぐに出て左の和泉川に沿って進み、その先のゲートを出て道路を横切り遊歩道に入ります。鍋屋橋のところで川と別れ細い鎌倉道に入ります。しばらく進むと「東泉寺」の看板が目に入ってきます。

東泉寺は、以前境川沿いに在りましたが度重なる水害で、天承18年(1590)頃、曹洞宗寺院として現在地に移転再興されたのです。

 

鎌倉時代にこの地を治めていた飯田五郎家義が崇拝した薬師如来(弘法大師作伝)は、眼病、出産、育児から人々を救う霊験あらたかな仏様として近郷の信仰を集めました。また、堂内には弘法大師石像が祀られており、相模準四国八十八ヶ所の59番札所となっています。

 案内板に「子は宝 親の背中は道しるべ」と書いてありました・・・反省しきりです。ここでは和尚さんが薬師堂を開けてくれて詳しく説明を聞くことが出来ました。そのすぐ隣に「琴平神社」があります。

最も古い建物は山門で、天明3年(1783)建立され、棟木には当時の世相(天明の飢饉の様子、浅間山の噴火、風水害の様子など)が記され、山門脇には芭蕉門下の俳人美濃口春鴻の「人もかく老いて秋立つ眉毛かな」の句碑があります。また、敷地内にかって別当として祀っていた琴平神社(金毘羅様)があるのも珍しく、寺名よりも「飯田のこんぴらさん」として親しまれてきました。

そして元の道に戻り、しばらく行くと途中右手に美味しそうなお蕎麦屋さんがあります。途中下車もアリですね? その先に相鉄線の高架の線路が見えてきます。まさに畑の中を走る電車です。すぐ右手に「富士塚公園」があります。その右手の坂を上った先に、あの可愛らしい下飯田の駅舎が見えてきます。ここで解散といたしました. 

2017年 第十一回 妙蓮寺から菊名神社までを散策する。

◆散策日  2017年11月1日(水) 午前9時30分 (妙蓮寺駅東口集合)

                        当初の予定は10月25日でしたが台風21号の風と雨の影響で11月1日に順延しました。ところが、台風22号が太平側  

                         を通過するので天気を心配しましたが、台風一過、青空で晴れ。秋晴れの中の素晴らしい散策でした。

散策コース: 妙蓮寺 ⇒ 菊名弁財天 ⇒ 菊名池公園 ⇒ 菊名桜山公園 ⇒ 金子邸 ⇒菊名コミュニティーセンター ⇒ 蓮勝寺 ⇒ 菊名神社

       ⇒ 菊名駅(解散)

 

妙蓮寺駅東口正面に立派な境内を持った日蓮宗の妙蓮寺があります。

 

1350年(観応9年)現在の横浜市神奈川区神明町に波木井善太郎が日輪を開山上人として、大経院妙仙寺を開きました。その妙仙寺は、1908年(明治41年)に横浜鉄道臨港線(現:JR横浜線)敷設のため、移転を余儀なくされました。住職・日體上人は、当時、蓮光寺は檀家も少なく不便な地にあって維持が困難な状態にあった浄寿山蓮光寺を移転先に選択しました。妙蓮寺と言う名は両寺院から1文字ずつ取って付けたものです。

 波木井善太郎には、次のような言い伝えがあります。

 波木井善太郎は、日蓮に帰依した波木井一族で伊豆の国から生麦村に移住してきた人物であります。彼は、信仰心が厚く池上の祖師堂へ一日も欠かさず参詣をし始めて数年を経たある時、日蓮よりお前は信心深いと思われるので大切なことを頼みたいと言われる。自分には日像という弟があり十歳位であったが、祖師日蓮よりお前は都へ上がり仏法を世に広めよと命ぜられました。そのため、現在弟日像は都ばかりでなく、遠く西国まで祖師の教えを広め及ぼしていると聞く。ところが、下総の国平賀に居る年老いた母がしきりに日像に会いたがっている。お前がもしこれから都に上がり弟を尋ね、この旨を伝えたならば、祖師堂に一日も欠かさず参詣した功績と少しも劣らないものになろう、と日輪は言った。

  その善太郎は、急ぎ都に上がり一篠戻橋のあたりで日像に巡り合えたので、日輪師の書翰(しょかん)を渡し、その趣を話すと日像は涙を流し、今自分が弘通(ぐつう)半ばで投げ出し東国に帰ってしまったら、たちまち都はもとより地方まで祖師の教えが消え途絶えるばかりでなく、権勢ある人から誹謗もどれほどあるか分からない。といっておいのうちより一体の祖師像をだした。これは自分が仏道に入った頃、自ら彫刻して、朝に夕に宗門の広まることを祈った本尊である。お前はこれを関東へ大事に持ち帰り日輪に渡し、老母がこの像を拝することによって私に対面したつもりになって欲しい旨、伝えてくれといわれ非情にも別れた。善太郎は迷いから覚めた心地がして、祖師の仏法に対する周囲のそしりを恐れ、その像を皮龍に入れて背負い池上に持ち帰った。その後、日輪は妙仙寺を建立して、この像を本尊として安置したのです。

 妙蓮寺を見たら、線路を渡り西口に、すぐに右折して少し進むと左手にりそな銀行とクリーニング店があります。そこを左折するとすぐ右手に菊名弁財天菊名公園プールが見えてきます。

 菊名弁財天は、横浜七福神の一つで、千年以上の歴史ある古社と言われています。一般の弁財天は、琵琶に坐像ですが、菊名弁財天は右手に剣を、左手に玉を持つ女神立像です。右手の件は、降摩の剣と伝えられ、人々の迷いを切り払います。左手の玉は、招福の玉と伝えられ、財宝を授与すると言われています。本殿は、霊廟建設で、向拝柱に降龍や南門の彫刻があります。

  横浜七福神は菊名池弁財天の他に興禅寺(高田)―福禄寿神、金蔵寺(日吉) ―寿老神、東照寺(綱島)―布袋尊、蓮勝寺(菊名)―毘沙門天、正覚院(菊名)―大黒天、西方寺(新羽)―恵比寿大神です。因みに霊廟建設とは、貴人・武将など実在した人物の礼を祀る為の建物のことです。

 プールの周りを一周して通りに出て、T字路を右へ、正面に東急のガードが、その手前の菊名橋の信号を渡り菊名池公園に入ります。

 菊名池は、港北百話によりますと平安時代の昔より武蔵野の一隅に灌漑用水として付近の農民の生活に寄与することが多かったそうです。大きさも地図で見る通り菊名池プールとがっており大変大きな池でした。

 菊名池には、1300有余年以前より大龍神が鎮座し、里人は菊名大明神と崇め奉まつりました。菊名池はその守護を得ていると伝えられています。

 池にはコウホネの花が残っていました。釣り糸を垂れている人が数人、広場では近くの保育園の子供たちが大声をあげて遊びまわっていました。

 公園を出てバス通りに入ります。正面に線路が見えています。踏切を渡って菊名方向に進み500mほど進むと右手の山側に菊名桜山公園の看板が見えてきます。

 菊名桜山公園は八重桜の名所として知られています。もともと「第一カーボン」の所有地であったため、地域住民からは「カーボン山」と呼ばれています。2001年には、カーボン山がマンションの建設予定地となったため、地域住民による「桜の森を守る会」が発足。自然を守る活動が続けられ、2010年には横浜市が土地を買い取り、公園として整備されました。4月中旬には、「カーボン山桜まつり」が開催され、近隣小中学校による出し物やステージイベントがあります。会場内では模擬店やフリーマーケットなどもあります。  

 小休止をして直進、公園を出て左折、道なりに下っていきます。右下に横浜線が走っています。遠くに新横浜の丸いホテルも見えています。菊名3丁目公園を右に見て急坂を下ります。右手に菊名記念病院も見えています。下りきったところ(セブンイレブン)で線路を渡ります。渡った右手に金子家の屋敷があります。線路に沿って菊名方面に進むと右手に菊名コミュニティーハウスが見えてきます。階段を上って入ってみましょう。トイレ休憩です。

 ハウスの右側から道路に出、左に坂を下っていきます。すぐ右手に蓮勝寺があります.正和4年(1315年)2月、浄土宗第5祖蓮勝上人が開山したもので、菊名山喜楽院と号します。蓮勝上人は、浄土宗八祖相丞の中の一人で、御化益(ごけやく)のおり、この菊名の地が野菊咲乱れ風光明媚であったため、念仏の道場として現在地に北側に庵室を作ったものです.

上人はここで念仏修行の傍ら地域住民の教化に努め、関東一六庵室の一つと言われていました。その後。荒廃していたものを応永のころ(13941428)喜楽和尚が現在地に移建し中興の業を遂げたため、院号が喜楽院と名付けられたと言います。

 石門を入ると右手に毘沙門堂(写真)があり、運慶作と言い伝えられている毘沙門天王立像が安置してあります。この毘沙門天は、昔この寺に合ったものではなかったが、伝説によると第何代目かは定かでないが、ある住職が蓮勝寺住職として転住のおり、その護持仏である毘沙門天が、夜な夜な夢枕に現れ三夜目には「我が貴僧のもとに連れて行け」と強いお告げがありました。そこで、連勝寺にお祀りしたところ、以来菊名の邑には災難や流行病が無くなったと言われ村民の尊信厚い仏像でありました。また、ある時、村人がこの尊像に足を向得て寝ていたところ、何時の間にか頭と足が反対に代わっていたと言い、それからは枕返しの毘沙門天と称されるようになったという話も残っています。

 また、ある時、村人がこの尊像に足を向得て寝ていたところ、何時の間にか頭と足が反対に代わっていたと言い、それからは枕返しの毘沙門天と称されるようになったという話も残っています。

  石段を上がると正面に本堂があります。その中に「奇跡の石猿」が、祀ってあります。この石猿は、昔からこの寺にあったものではありません。昔、近くを通過している街道があって、人々に呼びかけたり急に驚かしたりと言った悪さをしため村人はほとほと困り果てました。時の住職が、寺に封じ込め悪戯が出来ないようにしてしまいました。 以来、この石猿の口からは声を発することは無くなりましたが、猿の口は常に湿りっぱなしとなったのです。ところが、猿の口が再び乾いてくると不吉なことがあったり、天変地異が起こると言い伝えられています。

  石猿は、昭和51年(1976年)に刊行された『港北百話』に大正12年(1923年)の関東大震をも予知したと書かれています。尚、残念ながら石猿は本殿に祀られ普段見ることは出来ません。

 帰りは、正面からではなく毘沙門堂の前を通って外に出ますとそこは坂道になっています。菊名には、七下がりという古道の名が残っております。現在定かではないが、ほぼそれらしきものとして今でも七本の道があります。の一つに俗称川崎坂と言われ連勝寺脇を下る急な坂道があります。坂の付近に年老いた古狸が一匹棲みついていました。この狸、人を驚かせるのを趣味としていたらしい。道を通る人々に悪戯をしたり、時にはや薬缶に姿を変えて川崎坂を転げ落ち、人々と驚かせたという。そこで、人々はこの坂を「薬缶坂」と言いました。

 少し坂を下ると菊名の五差路に出ます。右手のパチンコ屋に沿って曲がり100mほど先の左手に菊名神社が現れます。ここ菊名の地には、昭和の初期まで神明社(天照皇大神)、杉山神社(日本武尊)、浅間神社(木花咲耶姫命)、八幡神社(譽田別命)、阿府神社(武内宿禰命)の5社が村社として地域の人々の信仰を集めて参りました。

  この5社が昭和10年、現在は菊名町公園となっている杉山神社の地に合祀され、名も「菊名神社」と改められました。その後、太平洋戦争の戦火を逃れてからは、同所を保健所建設用地として提供するため、当時の八幡神社の地(現菊名神社の地)に社殿を移設、以降この地で菊名の総鎮守として地域の人々とともに歩み、またその生活を見守り続けて参りました。
 拝殿には、24枚の天井画があります。この絵は寒川神社(寒川町)の絵馬デザインなどを手掛けています現代美術家の建部沙織さんの作です。建部さんは、「絆」をテーマにしました。中心に「菊名のつながり」を表現した輪になって咲く菊をすえ、周りに十二支を置き、子猿をおんぶする親猿といった親子や友人などの「ふれあい」を描いています。

  また、境内にある「がまんさまの石像」(写真)や港北区の「ハナミズキ」と言った地元ゆかりの題材もちりばめています。

 「がまんさま」は寛政年間(17861801)に築かれたと伝えられる、手水鉢をささえる四方の支柱になっている鬼の石像のことです。この「がまんさま」は、長い年月苦難に耐え、同じ仕事に飽きる事なく手水鉢をささえているそのがまん強い姿から、人の道も努力・忍耐こそが開運を招く基であると論しています。四体それぞれお顔が違い、右の奥にある鬼の石像が昔のものです。元来た道を戻って五差路の右手の商店街を50mほど進むと右手に菊名駅が現れます。

2017年 第十回 今年完成した池辺市民の森を散策する

 ◆散策日 2017年10月4日(水)  午前9時30分(都筑ふれあいの丘駅改札口集合)

                この日は、曇り空でしたが暑くなく、散策日和でした。38名中29名の参加で、参加率は76%でした。

◆散策コース 都築ふれあいの丘~池辺農業専用地区~池辺市民の森~福寿院~観音寺~バス停藪根解散

 今日は数年前に歩いた道を辿ります。駅舎を背中にして右手の横浜市資源循環局都筑工場の煙突に向かって進みます。煙突のところで右折して農道に入ります。暫く歩くと右手に富士塚があります。頂上からの展望を楽しんでください。ただし先頭を歩くと蜘蛛の巣に引っ掛かりますのでご用心!

 横浜市資源循環局都筑工場はゴミ焼却のための工場で、敷地面積が約64,218㎡(東京ドームの約1.4倍)、一日あたり400トン処理できる3基の焼却炉があります。都筑のシンボルの一つと言われている煙突は、高さが地上130m2011年にそれまでの赤と白から青と白に塗り替えられました。更に農道を進むと左手にポンプ小屋があります。このポンプで地下水をくみ上げてこの地区に水を供給しているそうです。その先右手にはビニールハウスがありトマトなどを作っていました。そして緩やかな坂を下ったところで右折、道なりに左のほうに進むとふれあいの丘駅から緑産業道路に向かう道路をまたぎます。

 橋を渡って少し坂を上りきったところで左折します。左手には池辺農業専用用地が見渡せます。用地には大根、人参、葱、里芋など秋野菜が栽培されています。都筑区は南部地域を中心に農業が盛んです。横浜市は昭和43年(1968)港北ニュータウンの南側を中心に7か所の農業専用地区を整備しました。折本、池辺、大熊、新羽大熊、東方、佐江戸宮原、牛久保で延べ238,6ha(東京ドーム約51個分)の広さです。池辺農業専用地区は、「火力焼却工場(都筑工場)」建設の見返りとして、横浜市から示された都筑工場の排熱利用に刺激され、温室フレーム栽培を採用した先進的な農業専用地区になっています。                                

 200mほど先の右手に市民の森の看板(北入口)が目に飛び込んできます。ここま市民の森の案内は一切ありませんので慣れないと発見できないかもしれませんね。この北入り口からだとほとんどの行程が下りになりますので楽勝です。竹林の中を下っていき広場に出ます。その先を少し上って進むと展望広場となります。ベンチなどもありますので休憩タイムとしましょう。途中もそうですが、ここにも公衆トイレはありませんのでご注意ください。あとは道なりにぐんぐんと下っていき南入り口に出ます。この公園内の階段にはすべて手すりが設けられていて年配の方にも優しく、安全に作られています。

 外周道路を道なりに進むと中原街道に出ます。左折して次の信号を渡って直進します。しばらく進むと福寿院が左手に現れます。このお寺には多くの古木があり、市指定の看板がついています。中でも春先の枝垂れ桜とさがり梅は見事です。また鬼瓦も是非ご覧ください。鐘楼の脇にも本物が置かれています。

福寿院を出て少し戻って左折、少し小高い所に阿弥陀堂があります。ここには島村文耕の墓があります。明治5年に都筑郡の治安維持のために邏卒(警官のこと)1名が配属されました。池辺村の嶋村タツ所有の家屋が詰所となりました。これが都筑警察署の前身です。この頃池辺村に配属されたのは、明治の文豪島村抱月の養父嶋村文耕です。

 文耕は明治12年に池辺村の嶋村タツと結婚し、嶋村家の養子となりました。その後。明治14年に小田原警察署係りとなり、翌年検事補に任命され横浜始審裁判所詰めとなりました。明治17年に広島始審裁判所に、ついで三次始審裁判所、明治19年に松江始審裁判所浜田支部勤務となりました。この浜田で当時給仕として働いていた佐々山瀧太郎後の島村抱月と運命的な出会いをしました。嶋村文耕は抱月の人並みでない才能を認め、東京で勉強することを勧めました。抱月は明治23年、20歳の時上京しました。文耕は抱月に再三自分の養子になって欲しいと懇請した結果、明治24年6月13日に嶋村家に入籍しました。阿弥陀堂の境内の墓地に、嶋村抱月が建てた墓碑があります。苔むした墓碑には、文耕の戒名である「大悟院泰安文耕居士」と没年及び「施主島村瀧太郎」と刻まれています。

 

島村抱月は、明治4年島根県小国(現・浜田市)に生まれました。評論家、演出家で初期新劇運動の指導者。旧姓は佐々山で本名は瀧太郎。明治35年から38年まで早稲田の留学生としてイギリス、ドイツに留学。演劇、音楽に関心を寄せました。帰国後の明治39年に坪内逍遥と文芸協会を設立。渡欧中の観劇体験をもとにイブセン作「人形の家」などの演出にあたり、逍遥の路線と対立する。

女優松井須磨子との恋愛問題も表面化し、大正2年の恩師の逍遥と決別し、家庭も捨てて松井須磨子と芸術座を結成。翌大正3年トルストイの原作「復活」が大当たりし、松井須磨子の「カチューシャの唄」が大ヒットしました。大正期の新劇の普及と発展に大きく貢献しましたが、大正711月5日、スペイン風邪により47歳の若さで急逝。松井須磨子は、その2か月後にあとを追うように自殺しました。

2017年 第九回 大井から品川宿を散策する

◆散策日: 20179 20 日(水曜日)   午前930(集合時間) 

    この日は、生憎の曇りでしたが、散策するにはちょうど良い温度でした。参加しましたのは、23名、参加率約60%。

 ◆散策コース: 大井町駅→ゼームス坂→高村智恵子の碑→海蔵寺→願行寺→妙蓮寺→海徳寺→荏原神社(トイレ)→品川橋→聖蹟公園→品川神社(トイ   レ)→旧東海道→法禅寺→問答河岸→魚屋の前にて解散→京急北品川駅 

  大井町駅を出て左の大井町銀座商店街通りを進みます。暫く行き左手角の「Y!mobil」を左折し「すずらん通り」に入ります。すずらん通りの左右は飲食店が並んでいますが、左手の一角は、「東小路飲食街」と言います。

 戦後の闇市を起源とする古い飲食店街がそのまま残り現在に至っています。戦後のどさくさ建築のひとつでもあります。食べ物100円から飲み物180円からととにかく安い。中に立ち入ったら酒飲みには誘惑が多い場所、なかなか出られないのは大森の地獄谷と同じです。

 その飲食街の突き当りがゼームス坂通りです。

 ゼームス坂」は、明治時代にこの坂下付近に住んでいたM・ゼームスという英国人が、私財を投じて非常に急な坂を緩やかに改修したことから。その名を取って呼ばれるようになったのです。M・ゼームス(18391908)は幕末に日本に来日し、明治5年に海軍省に入って測量調査や航海術の指導を行った人物です。

 ゼームズ通りを左に曲がりエンジュ並木を下ってゆきます。エンジュは、中国では出世の木として大切にされています。

  歩道に咲くキバナコスモスに癒されながら下ってゆき、信号を左折します。左手に「ゼームス邸跡地について」を説明した石碑があります。読み終わって右斜めを見ると大きな桜の木の下に高村智恵子「レモンの碑」が建っています。その場所は、千恵子が終焉を迎えたゼームズ坂病院があった所です。

  「ゼームス坂病院」は、詩集『智恵子抄』で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉(しゅうえん)の地です。

 高村光太郎は、彫刻家高村光雲の長男として東京で生まれ、彫刻家・詩人として活躍しました。その妻智恵子は、福島県二本松の裕福な造り酒屋に生まれ、日本女子大学を卒業後、絵画を学ぶうち光太郎と知り合い、大正3年(1914)に結婚しました。 智恵子は、そのころには珍しく社会的自立を目指す女性で、絵画の創作を単なる趣味ではなく、経済的自立の手段と考えていた。しかし、結婚後は、思うように絵が描けず、また、父の死や実家の没落も打撃となって、智恵子は次第に精神を病むようになる。光太郎は仕事を減らして看病に専念したが、病状は、すすむ一方で、昭和10年(1935)にはゼームス坂病院に入院したのです。   

  この病院で智恵子は、今まで抑(おさ)えられていた創作意欲をはきだすかのように切り絵に没頭し、一千点もの作品を残します。しかし、遂(つい)に退院できぬまま、3年後に生涯を終えました。 ゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまったが、その跡地の一角に、記念碑「レモン哀歌の碑」が建てられました。1938年智恵子が死ぬ数時間前にレモンを口に含んだときの様子が光太郎の詩「レモン哀歌」に見事に描かれている。この日105日は「レモンの日」と名づけられているます。

そして今来た道を戻りゼームス通りに出て左折します。大井町を出た商店街も「銀座」でしたが、ここも「品川銀座」でバス停もあり街灯には提灯もあります。因みに全国で銀座と名が付く商店街は345件あるそうです。また、地名「銀座」の発祥の地は、銀座2丁目です。品川銀座周辺案内板を見ると至るところお寺だらけです。お寺が22、神社と稲荷が5で合計27を数えました。案内板を後にして進みます。「くすりのトラヤ」の前の横断歩道を渡ります。暫くすると「葬祭聖幸社」の看板が見えます。手前の右側に「馬蹄観世音」がひっそりとあります。その前を歩いていくと突然30階位の高層マンションが現れます。そして右に曲がって進むと右手に「海蔵寺」の山門に出会います。今日初めてのお寺訪問です。

 海蔵寺は、江戸時代に鈴ケ森で処刑された罪人や、引き取り手のない遊女などを葬ったので「駆け込み寺」とも呼ばれていました。最初に眼に止まるのが大きな松の木。右手に「宝蔵稲荷」、その横の細い道を入って行くと「無縁仏供養塔」に出会います。

  「無縁仏供養塔」は、かつて、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永5年(1708)に築かれた塚です。お参りをすると頭痛が治るということから頭痛塚と呼ばれました。この塚に、天保の大飢饉(1833-40頃)の折になくなった215人を祀る215人塚も合葬され、更に品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森処刑場で処刑された人の首の一部も埋葬されて、総称を首塚と名付けられたのです。

  この首塚の他に、慶応元年(1865)の造立の津波溺死者供養塔や、大正4年(1915)に造立の京浜鉄道轢死者供養塔、昭和7年(1932)に造立の関東大震火災横死者供養塔などがあります。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、本寺は品川の投込寺であったのです。

 帰りの山門に向かう途中にフウセンカズラがあります。果実の中にある種子は球状で大粒、なめらかな黒でハート形の白い部分があります。

 

「海蔵寺」を出て右に進み第一京浜の広い通りの信号を渡って、更に進むと右手に「願行寺」があります。山門を入ると正面に本堂が横向きにあります。左手に「法界堂」、その先に「究学」の碑(先々代の住職が宗教哲学を極めたことを祝って壇家たちが寄贈した物)があり、その左手の地蔵堂に「しばり地蔵」が安置されています。

 

「しばり地蔵」は、地蔵の身体を縄で縛ると、苦しみを肩代わりしてくれるといわれているため、以前は荒縄で首だけを残してびっしり縛っていたが、現在は麻縄で地蔵の胴体を巻いています。石の地蔵でも縛り続けるとかわいそうだからだと、1014日の法会の夜は住職が縄を解いて、翌日また縛りなおすのです。地蔵は首がとれるようになっており、願いをかけ人が、首を持ち帰って祈願し、願いがかなえると首を二つ奉納しました。そのため地蔵の周りには、いくつもの首があります。

「願行寺」を出て道を渡ると直ぐ左手に「妙蓮寺」、その先には「蓮長寺」、その斜向かいに「心海寺」がありますが、やり過ごして行きます。アサヒ興洋の看板が見える交差点を左折、途中に今を盛りと酔芙蓉が咲いています。朝は白ですが、通る時間はピンクに染まっていました。そして「本覚寺」を左手に進み、突き当りを左に曲がると「海徳寺」の山門があります。山門を入ると左手に「軍艦千歳殉難者之碑」、その隣には黒船襲来時に撃ったのではないかと思われる大砲が置かれています。

 軍艦千歳殉難者之碑」は、明治39年(190612月9日、品川沖に停泊していた軍艦千歳に渡る伝馬船が、突風を受けて転覆し、乗組員65名見送り人15名が死亡しました。遭難者の救助は品川町をあげて行われ、遺体は海徳寺に安置、供養され、大正8年の13回忌のときに碑が建てられたのです。

 正面の本堂の欄干にある裸の像は、ホームページで「力士像」と紹介され名を知られていますが、住職の奥方が言うのは、違いまして「天邪鬼」だそうです。この寺でもっとも有名なのが、本堂の左の松の横にありますバットとボールを持った「ホームラン地蔵」です。これは、世界のホームラン王である元巨人軍王貞治選手は新人の頃、心臓病の少年にホームラン王になることを誓いました。少年は14歳で亡くなりましたが、王選手は記録達成ごとにその少年の墓をお参りしたそうです。ホームラン世界記録を樹立したときも報告に訪れたそうです。

 海徳寺を出て左に進み目黒川に架かる赤い鎮守橋を渡ると「荏原神社」です。鳥居を潜ると右側に「明治天皇と荏原神社 内侍所御奉安所史跡」があり、右前方には「神楽殿」、正面には本殿があり、途中に「恵比寿像」があります。

 本殿の前の狛犬は、大変珍しく可愛いい2匹の子供を抱いています。子孫繁栄を願ってのことだそうです。また屋根を見ると左右から龍が顔を出しています。1つは本尊が龍神様であることが判るように、もう一つは龍の口から雨水を落し水瓶に溜めており、水を大切にしましょうというメッセージが込められています。「荏原神社」を出て左に目黒川沿いを歩いてゆくと右に「品川橋」があります。左に「東海道品川宿」が表示されています。

 いよいよ旧東海道です。

 旧東海道は平成に相応しい新しい商店街に変貌し、歴史を感じさせるものは見当たりません。

 国道357号線の信号を渡り右に進むと左側に「品川宿本陣跡」がありますが、入り口にひっそりと小さな看板があるだけです。寧ろ、奥まった大きな木に隠されて真ん中に御聖跡、右に聖徳の碑、聖蹟公園由来の碑。左に石井鉄太郎氏胸像と夜明けの像が並んだ聖跡公園が主役です。

 公園を出て左に戻ると北馬場参道通り商店街に入ります。 

 商店街を進むと正面に「品川神社」の大きな鳥居が現れます。

  「品川神社」は、北品川の鎮守で北の天主様として人々に親しまれ、江戸時代には北品川稲荷社、品川大明神、天王社と呼ばれていました。鎌倉時代の初め文治3年(1187)に、源頼朝が安房国洲崎大明神を勧請したものと伝えられています。現在の社殿は昭和39年(1964)に新築されたもの。境内には阿那稲荷社(あないなりしゃ)、御嶽神社、浅間神社(せんげん)道祖神社等があります。左右の柱に上がり龍・下り龍の彫刻を施した階段下の大鳥居(1枚目写真)は、大正から昭和にかけて北品川宿で栄えた料亭三徳(さんとく)家の主人赤松徳太郎が大正14年に寄進したもの。浅間神社前の石造灯龍1対は、慶安元年(1648)の寄進。都内で現存する石灯籠のなかでも早期に製作されたものです。参道中央、一番社殿に近いところにある石造り鳥居は下総佐倉の藩主、堀田正盛が慶安元年(1648)に寄進したもの。都内では上野寛永寺の鳥居についで古いです。

  階段を上がり途中にある「富士塚」(2枚目写真)の入り口を登ります。富士塚の高さは約15mで、5合目に着くと10合目を目指すもう一つの登山道があります。狭くて急ですので必ず鎖を持ってください。頂上からは、品川宿が一望でき、レインボーブリッジが微かに見えますが、周りを囲むものは何もありません。帰りは反対側にある下山道の階段を降りますが、急でしかも不揃いの石段です。十分に注意してください。

 正面に本堂があり、左手には「浅間神社」(3枚目写真)、右手に「包丁塚」(4豆写真)があります。

 

品川神社の本堂と阿那稲荷神社の間に狭い道があります。道なりに進むと奥まったところに演説中に刺客に襲われたときにいったと伝えられた言葉板垣死すとも 自由は死せず‘の碑と板垣退助夫妻の墓があります。参る人は誰もいない、まさに「自由は死んでしまった」を感じさせます。

 板垣退助(18371919)は、土佐藩の生まれ。藩主の側近として藩の世論を尊王・倒幕に導き、幕末の戊辰戦争には土佐藩の兵を率いて参加しました。明治維新後は新政府の参議を務めたが、征韓論に敗れて官職を辞し、日本で最初の政党、愛国公党を結成して自由民権運動の口火をきった。議会開設後は、自由党総理として議会内で活躍、明治31年に初の政党内閣大隈重信内閣の内務大臣を務めました。

 品川神社を出て国道15号を渡り再び北馬場参道通り商店街の門を潜り、虚空蔵菩薩霊場の汚れたカンバンを左に曲がります。大震災にも壊れなかった煉瓦の塀の横を通り抜けると「養願寺」に出ます。そこを右に曲がって突き当った所が「一心寺」です。2度目の旧東海道(北品川商店街)に歩みを進めると左手やや上にコインパーキングの看板見えます。そこを左に曲がると「法禅寺」です。ここは流民叢塚碑(るみんそうづかひ)山門及び袖塀、本堂の側面、板碑覆堂などの煉瓦作りが多いことでも知られています。

 流民叢塚碑(るみんそうづかひ)は、天保の飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔です。天保4年に始まった天候不順は、その後数年におよび多数の餓死者をだしました。品川宿には農村などから流浪してくる者が多く、この付近で病や飢餓などから倒れる人が891人を数えました。これらの死者5百余人は法禅寺にそれ以外は海蔵寺に葬られ。法禅寺の正面左に各3体の六地蔵が安置されたのです。

法禅寺を右に出て北品川商店街を左に行くと直ぐに藤沢宿の兄弟松があります。そこを右に曲がり直ぐの横断歩道を渡って左に曲がり、またすぐ右に曲がります。そしてその先で「御殿山下台場跡」に出会います。来た道を戻り、広い道に出る手前を右に曲がると「利田(かがた)神社」です。その横を右に進みます。左手に葭簀(よしず)に囲まれた小屋があり、品川浦の生活を紹介した看板、その横に何故かオムスビ型をした大きな石の「鯨塚」があります。

  「鯨塚」は、寛政10年(1798)に建てられた富士山のような形をし、鯨塚と横書きした石碑で当時の俳人谷素外の句「江戸に鳴る冥加やたかし夏鯨」が刻まれています。この年、品川沖に迷い込んだ鯨を、漁師たちが総出で捕らえるという事件があり、これが評判となり見物人が押し掛け、ついには時の将軍、11代徳川家斉(いえなり)まで上覧になるという騒ぎになりました。この鯨の残骨を集めて埋めた上に建てたのがこの鯨塚であります。

 鯨塚の横の階段を上がった所に公園。鯨のオブジェの横を通り信号を渡った橋の下には品川浦船だまりがあり沢山の屋形船が泊っています。橋の左の信号を渡りそのまま直進、三度目の旧東海道に出ますので右に曲がります。向かった先の右手の角に最終目的地の問答河岸跡」があります。この日は、ここで解散しました。

2017年 第八回 考古学発祥の地・大森貝塚などを訪ねる

◆散策日  2017年9月6日(水曜日)AM9:30~PM12:30

        この日の天気予報は、雨模様っでしたが、良いほうに外れました。曇りで散策にはちょうど良い天気となりました。

        会員同士、普段の行いが良いんだと自画自賛をしました。

<散策コース> 大森駅~考古学発祥の地文士村のレリーフ~地獄谷~大森貝塚の碑大森貝塚遺跡公園(トイレ)鹿島神社品川歴史館

      来迎院供養塔群大井の水神光福寺西光寺(トイレ)作守稲荷社三つ又地蔵尊~商店街~大井町駅 解散

 西口改札口を右に出ますと池上通りが南北に走っており、クルマが引っ切り無しに通り過ぎてゆきます。横断歩道を渡った正面に「馬込文士村散策のみち」があります。

 「馬込文士村」は、東京都大田区山王、馬込、中央一帯(JR大森から西側の地域)に、大正末期から昭和初期(当時は東京府荏原郡入新井村、馬込村)に多くの文士、芸術家が関東大震災後に移り住み、互いの家を行き来し交流を深めていた場所です。

 明治34年(1901年)に京浜東北線大森駅が開業されると現在の山王一帯は東京近郊の別荘地として開発されるようになりました。明治時代の終わりころになると日夏耿之介、小林古、川端龍子、伊藤深水、片山広子、真野紀太郎、長谷川潔らの芸術家や詩人達が中心となって山王一帯に住むようになり、馬込文士村の原型を作ったと見る事ができます。

 大正時代に入ると彼らは「大森丘の会」と称した会合を当地にあった「望翠楼ホテル」で頻繁に行っていた。この会合は各芸術家などの連帯感を強め、それぞれの作品に影響を与えたものと言われています。

 大正12(1923年)になると後に馬込文士村の中心的な存在となった尾崎士郎が馬込に引っ越して来ました。尾崎士郎は当地が気に入り、知り合いの文士達にしきりに当地に引っ越してくるように勧誘していたそうです。これに拍車をかけたのが同年に起きた関東大震災で、東京市内は壊滅的な被害に見舞われた。家を失った人が徐々に郊外に移ってきて、東京近郊であった馬込など馬込文士村周辺も農村から住宅地へと徐々に変貌していくようになります。そして大正末期頃から昭和初め頃にかけていわゆる「馬込文士村」が形成されたとされています。

 この頃は尾崎士郎をはじめ、今井達雄、川端康成、衣巻省三、榊山潤、藤浦洸、間宮茂輔、広津和郎、宇野千代、佐田稲子、古屋信子、村岡花子、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治らがおり、文士達の交流はとても密で、酒や麻雀、ダンス文学談義などを共にした様子がレリーフとして残されていますレリーフの右隣にある階段を昇った所に「天祖神社」があります。階段は45段で幅も石段も狭いので転んだりする危険があり今回は止めます。レリーフ前のかつて八景坂と呼ばれた坂を上がりきったところです。

 再び横断歩道を渡り歩道を大井町方面に歩きます。数分するとケンタッキーフライドチキンの店があります。右にある階段を下るとそこは通称「地獄谷」(正式名称「山王小路飲食店街」と言う100メートル足らずの路地。バル(バーと食堂が一緒になった店)や立ち飲み大衆居酒屋、バー、スナックなど40店舗の昭和の雰囲気が漂う店がひしめき合うノスタルジック街です。

 地獄谷は、一説によりますと舗装された階段がなった昔の雨の日に谷底にある飲み屋から泥酔客が急坂を上がれず帰れなくなるということから来ているそうです。

 どんどん進んでいくと直に端から端まで歩けてしまう。それほど狭いのだが、陰鬱さがなくこざっぱりした横丁である。新宿ゴールデン街のような怪しさも無く、東上野キムチ横丁のような生臭さもあります。

 暫く歩きますと右手にNTTデータ大森山王ビルが見えてきます。ビルの前には、樹木を背景にした「我国最初之発見 大森貝墟」の石碑が立っています。

大森貝塚の石碑は、2つあります。

 1つは、ここで「史跡大森貝塚→」と書いた右に入る細い道がありますので進んでゆきます。階段を降り切るとトンネルがあり、更に奥に行きますと京浜東北の線路沿いに縦に書かれた大きな「大森貝墟」石碑があります。 二つ目の石碑は、300百メートル先にあります「大塚貝塚遺跡公園」の奥まったところに右から横書きされた「大森貝塚」の碑があります。

 その理由は、いたって簡単なものです。モース氏が論文で発掘場所を詳細に書かず、所在地を大森と記述したことによります。このため長い間、品川説と大森説の二つが存在しました。その後、昭和59年(1984)の調査により、東京府が大井村鹿谷(現在の大井6丁目)の土地所有者に、調査の補償金50円を支払った文書があることと貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、大森側では見つからなかったことなどから、現在ではモースが調査したのは、品川区側であることが分かりました。

  「大塚貝塚遺跡公園」の入り口は左右に薄い茶色の土壁になっています。入って鬱蒼たる木々の間を歩いていくと左手に「遺跡内の地図」が掲示されています。右手の「貝塚学習広場」を見て中央の道に戻り前に進み「縄文の広場」に出て大きくて長い「地層回廊」に驚き、左手の「モース博士」の胸像を見、一転して地層回廊の右の細い道を降り「貝塚展示ブース」を見ます。奥に進んで2つ目の「大森貝塚の碑」に遭遇。少し戻って右手に進み「貝塚跡」を見、大きな桜の木の下を更に進んで「波のオブジェ」を見て、そのまま道なりに進み、トイレの前を通って出口に向かいます

 

再び池上通りを大井町駅に向かって進むと右手に「大井鹿島神社」があります。

 

この神社は平安朝の中の頃、人皇第六十二代冷泉天皇の御代、安和二年(969年)に南品川常行寺の僧、尊栄法印が常陸の国、鹿嶋神宮より御分霊を勧請し当地に祀ったのが始まりだそうです。交通安全、旅行安全の神 となっています。もともとは、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の分社として創建されたもので、鹿島神宮と同じ 武甕槌神を祀っているそうです。

 

神社の中は大きな木々が繁っていますが、二本のタブノキとアカガシは推定樹齢150年を超えると言いますので一見の価値はあります。

 

また、江戸時代から明治の初めにかけて、この地域の農業用水供給に大きな役目を果たした                                             品川用水を記念する「恵澤潤沢洽碑(けいたくじゅんこうのひ)」があります。

 

品川の江戸時代の農業は、自然に恵まれず、天水や湧き水に頼るしかなく、旱魃に苦しむことが多かった。そのため村々は幕府に対して灌漑用水の開削について嘆願を長い間続けてきました。寛文7年(1667)になって幕府から工事の許可があり、工事は玉川用水を水源とした千川用水から分水する方法で行われました。

 

品川用水の開通により天水と湧き水に頼っていた田畑に、大きな恵みをもたらしました。しかし自分たちの村に正常に品川用水が流れてくるかどうかは、農作物の収穫高に影響するので死活問題でした。それだけに水利権の問題は大きく、盗水や水路破壊などの事件が発生しました。元禄10年(1697)品川用水上流の上仙川での、堰を作り用水を使っての水車使用の争い、文政3年(1820)上中仙川村との水争いなど、用水をめぐる水争いが続きました。品川用水は暗渠になり、見ることはできません。

 

池上通りに出て信号を渡ったところに「品川歴史館」があります。1階は東海道第一の宿場として栄えた品川宿の町並みの再現など、品川の歴史がよく分かります。2階は日本考古学の発祥の地、史跡・大森貝塚と、その発見者・モース博士についての資料が展示されています。

 先ほど渡った信号を左折し、坂を下ってゆくと途中の左側に「来迎院石造念仏供養塔」があります。更に下り、東海道本線のガードを潜った先の信号の左手角に「九頭竜権水神社(大井の水神)」があります。江戸時代の初期、貞享2年(1685)、大井の人々が農業用水の潤沢を願って寄進しました石の祠があります。祠の前に池があり、ここに湧き水が流れていました。しかし昭和50年代の都市化により湧き水は止まり、いまではポンプで地下水をくみ上げています。

  大井の水神を出て信号左に渡り、来た道を戻ります。左手にある階段を昇り切ると、左手に大井鹿島橋があります。渡った1本目のを左に曲がり、3本目を右に曲がりますと「光福寺」があります。本堂手前に推定樹齢800年の品川区内で最も古いといわれていますイチョウがあります。本堂の裏のタブの木の下には大井の名前のもとになりました井戸があります。

 「光福寺」前を進み、少し広い道を渡り、更に進むと「西光寺」に出合います。

 「西光寺」は明治時代大火に合い本堂と江戸時代名所とうたわれまし桜を焼失しましたが、1本だけ生き残り「児桜(ちごさくら)」と名付けられています。

 西光寺を出て左に行きます。道なりに進んで行き、二又の右を進みます。大井中央病院前を更に行くと三又道路の角に「作守稲荷社」があります。お参りした後、三又道路の真ん中を進みます。暫く行く池上通りに出ます。右に曲がり歩道橋を渡ります。

 左手にある三又道路の尖った先に「三つ又地蔵」があります。その右の商店会を見学しながら歩きます。京浜東北線の線路に突き当たりましたら左に曲がり道なりに進みます。JR線大井町が右手に見ますが、左手にあります「アワーズイン阪急ツイン館」の前で解散します。理由は、大井町線を利用する人もいる為です

2017年 第七回 金沢八景から金沢文庫を堪能

*散策日  2017年6月28日(水) 9:30~12:30

        この日は、朝から生憎の雨。天気予報では、昼には上がることになっていました。楽しみしていましたが、期待は見事に外れてしまい残念でした。

        途中で止んでいる時もあり、傘を開いたり閉じたりしながらの散策でした。

<散策コース>

 京浜急行線・金沢八景駅→ 瀬戸神社→ 琵琶湖島神社→ 明治憲法草創の地→ 龍華寺→ 安立寺→ 伝心寺→ 金沢八幡神社→ 薬王寺→ 称名寺→   金沢文庫→  金沢文庫駅

 

 この金沢の街は、通称”バス通り”と呼ばれる旧国道沿いに中世から現代にいたるまでの歴史を感じさせる神社仏閣・遺跡・言伝えなどが多く残されていました。

 また、鎌倉の東の玄関口として栄えました頃、風光明美な場所として沢山の観光客が訪れていたころと様々な顔も持っていました。

 その鎌倉時代とは、全く違う近代日本を創りあげた元とも言うべき跡も発見できました。

金沢八景を紹介した立札が琵琶湖島神社、明治憲法草創の跡地に向かい途中の不動産会社の二階にペンキで書いた看板が掲げられています。

 金沢八景は洲崎(すさき)、野島、瀬戸、平潟(ひらかた)、小泉(こずみ)、内川、乙舳(おっとも)、称名寺(しょうみょうじ)という8つの土地の勝景を呼びます。江戸時代(17世紀後期)、能見堂(現・金沢区能見台森)に来遊した禅僧、心越(しんえつ)が、そこから見下ろす金沢の眺望に心打たれ、その8景勝地を題材にして漢詩を詠んだことが起源なんだそうです。

 ところで、七景でも九景でもなく何故八景なのでしょうか?調べたところによりますと、 11世紀の中国の画人、宋迪(そうてき)が残した『瀟湘(しょうしょう)八景』という作品を、心越がまねたんだすです。『瀟湘八景』は、1つの土地の魅力を四季、天気、朝昼晩という時間の移ろいごとに8つの絵で表現しています。これが、文人や画人にとっては題材としての妙をもたらし、日本でも各地で八景選びが流行りました。

 鎌倉幕府の物流港だった金沢でも、『金沢八景』を題材にした書画が発行され、江戸期以降は行楽地として賑いを見せたそうです。八景選びは、町の経済を潤すための集客手段でもありました。八景の写真は上記の順であります。

 金沢八景駅を出て初めに出会う鎌倉の歴史は、瀬戸神社です。

 元来、この地は入海の瀬戸(狭い海峡)で干満時に急流となり、海上交通の難所であったため、56世紀の頃から海神を祀っていたようです。

 この霊地に源頼朝が挙兵に際して戦勝を祈願して、伊豆三島明神を勧請したのが瀬戸神社の始まりです。その後、北条氏や関東管領足利氏の崇敬を受け、徳川家康も慶長5年(1600)に自ら参拝し、百石の社領を寄進しています。

 現在の社殿は、寛政12年(1800)の建立によるもので、権現造りと呼ばれる様式です。
瀬戸神社には、鎌倉時代から伝わる多数の文化財が保存されています。なかでも源実朝が使用し、母の北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面(抜頭面と陵王面)が平成12年、国の重要文化財に指定されたことが特筆されます。

 なかでも樹齢720年とも伝えられるカヤの古木は、区内最古の横浜市指定古木です。

瀬戸橋を渡り「歴史の道」を進んでゆきますと龍華寺に出会います。

「龍華寺」は、源頼朝が瀬戸神社を建立した後、文覚上人と共に瀬戸神社の別当寺として六浦山中に建てた「浄願寺(じょうがんじ)」が始まりといわれています。「龍華寺」は800年以上の歴史を持つお寺だけに、貴重な宝物が所蔵されています。
 脱活乾漆造(だつかつかんしつづくり)菩薩座像天平時代の作と思われ、東海地方以東、初めて発見されました。梵鐘天文10年(1541)の銘がありますが、鎌倉時代後期の作ではないかと思われます。地蔵堂とまわり地蔵山門横の立派な建物は地蔵堂で中には約500年前、地元洲崎の村人の浄財によって造られた、高さ76センチメートルの寄せ木造りの地蔵菩薩座像と、約150年前、海岸に打ち上げられていた、身の丈17センチメートルの「まわり地蔵」が祀られています。この小さな地蔵はかっては厨子に入れられ、3日ごとに村の家々を回って拝まれていたそうです。

 歴史の道を進んで行きますと「安立寺」(下総中山の城主の富木常忍公が下総から鎌倉に渡るとき出会った日蓮上人と船中で行いました問答で日蓮聖人に帰依、「安立院日悟」となり、開きました寺。)、「伝心寺」(小田原北条氏の氏繁が養拙宗牧(ようせつしゅぼく)大和尚を招いて開山とした寺。)、金沢八幡神社との出会いを経て「薬王寺」に辿り着きます。更に歩みを進めてゆきますと今回の目的地であります、「称名寺」です。

 称名寺は、 鎌倉時代に北条実時が建立したとされる金沢北条氏の菩提寺で、本堂前の阿字ヶ池を中心とした浄土式庭園は見事です。歌川広重が描いた金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」はここの鐘楼です。

 赤い惣門を潜り抜けますと桜並木の参道があります。春にはさぞかし、見事な花を咲かせ多くに参拝者を楽しませることと思います。途中にアナゴ料理の「ふみくら茶屋」がり、昼食時には満員のお客が舌鼓を打っています。

 突き当りには、左右に仁王様が待ち構えや見事な仁王門に出会います。その先にある大きな池にかかった太鼓橋を渡った場所が浄土の世界です。正面に「金堂」その左に「釈迦堂」右に「書院」があります。

 この日の雨が、池と緑が織りなす庭園に歴史を物語る建物の眺めを何か悠然の世界にと連れて行ってくれた見事なものでした。

 ぐるっと回った最後の右手に「金沢文庫」があります。

 金沢文庫は、学問を好んだ実時が集めたあらゆる文献・文書を基にして作らてた我が国で現存する最古の武家文庫です。 鎌倉幕府が滅亡した後に接収をまぬがれた書物や書類は、称名寺で保管され、明治30年に伊藤博文の斡旋によって、大宝院に金沢文庫が再建されました。しかし、関東大震災で被害を受けたkとから、 昭和5年、神奈川県と大橋新太郎が費用を折半し、阿字が池の横の広場に「神奈川県立金沢文庫」を造りました。現在の場所に「県立金沢文庫」が建てられましたのは昭和2年です。

 館内には、称名寺が所有する国宝や重要文化財を含む鎌倉時代のものを中心とした所蔵品を保管し、展示公開されています。鎌倉時代を知るには一見の価値があると思います。

2017年 第六回 相模原台地の相模原公園を訪ねる

*散策日   2017年6月14日(水) 9:30~12:30

         この日は、晴れではあったが風もあり、暑さはそれほどではなかった。それでも汗をかき500MLのポカリスエット1本を飲み干してしまった。

<散策コース>

 JR 横浜線古淵駅 ー 女子美術大学行(2番乗り場) → 女子美術大学下車 → 相模原公園内散策(フランス庭~木漏れ日の径ショウブなど) →  (スポーツ広場)  → 大正坂(段丘崖を下る) →  道保川 → 下溝八幡宮 → 相模川展望広場 →下溝駅解散 → 橋本経由中山駅へ向かう
 C班はショウブ園を 見学後サカタのタネ熱帯植物鑑賞して女子美大前のバス停より 古淵へ戻ります。

今回の相模原公園の散策に当たり秋山先生が作成した資料を読んで大変驚き、強い興味を抱きました。

 相模原公園は、何と米軍基地跡だったのです。

 先日、散策しました港の見える丘公園や本牧山頂公園も元は米軍基地でした.調べてみますと神奈川県には、16の米軍基地があります。数もスペースも圧倒的なのは沖縄ですが、神奈川は北海道に次ぐ日本第3位の基地のある県ですから基地があったくらいで驚いたわけではありません。

 相模原という土地が米軍基地になるべくしてなったとしか思えない皮肉な歴史に驚いたのです。

 公園とその周辺は、江戸時代以前は相模原台地と呼ばれる洪積台地でした。この台地は、相模川と境川に挟まれた南北30キロ東西7キロある相模川が形成した扇状地が隆起したもの。3つに河岸段丘に分かれており、下段と中段は古代から集落が開からていましたが、上段は、広い原野のまま江戸時代まで残されてしまいました。

 この残された台地こそが、数百年後に数奇な歴史を刻むことになる現在の相模原公園なのです。

江戸時代に入ると徳川家康の方針で新田開発が盛んに行われるようになり、ここ相模原台地も新田開発が行われました。農民は、少しでも生活を豊かにさせようとしげっていた草をかり、土地をたがやし荒れ地を懸命に開墾しました。だが、台地の地表層は作物の育ちにくい関東ローム層であり、相模川の川底との高低差が80メートル以上入り水が得にくいため、収穫されたのはそば、粟、ひえ、大麦などで、しかも少ない。 米はほとんど口にすることができませんでした。肥料代や生活費などのための借金に苦しみ、人びとの暮らしは、あまり楽にはなりませんでした。薪や炭焼きのための植林を行いましたが、一向に生活は楽になりませんでした。

 江戸時代も元禄のころになると武士、町人、裕福な農民たちの服に絹が用いられるようになりました。絹織物産業は上方の京都だけではなく全国に広がるようになり、相模原に近い八王子も絹織物の町として盛んになりました。絹商人たちに進められた相模原の農民は、農作物や薪、炭では生計が立たないためそこに活路を求め養蚕・製糸業を始めたのです。苦労の甲斐があって台地は桑畑一面になり、大きな収入を得るようになりました。明治半ばから相模原の村々は右肩上がりの養蚕・製糸景気に湧き「蚕村」とまで言われるようになりました。しかし、幸せは長くは続きませんでした。

昭和5年(1930年)の世界恐慌が起こりました。

その影響で大きな打撃を受けたのは農村でした。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、併せて豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化しました。当時、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たのです。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じ農村は壊滅的な打撃を受けました。

 日本は昭和恐慌に突入し、昭和6年には満州事変が起こり、日本は戦争へと突入していったのです。

 この経済不況の影響を受けた「蚕村」として栄えた相模原は、「軍都」へと変貌していきました。

 昭和11年6月27日のことです。旧日本陸軍旧1師団から相模原の各村長は、突然の呼び出しを受けます。

 「陸軍士官学校と練兵場の用地買収をするので宜しく」という内容でした。各村長は余りに突然の申し出に驚き、「各地主とも相談したい」とその日は何と切り抜けました。耕作地を取られたら農民は死ねと言われたと同様であります。地主総会を開き、皆の総意で「変更してほしい」と申し入れましたが、陸軍から「強制収容も辞さない」と脅されます。村人たちは、「非常時だけに失業もやむなし」と、最後は、「天皇陛下万歳!」を三唱して用地買収に応じたのでのです。

 この不幸は、相模原の立地にあったのです。

 相模原は、神奈川県の北西部に位置し、都心に近く、相模川以東は地形的に相模野台地上にあるため起伏がない平坦地であった.

旧日本陸軍が捜していた東京に近く、安価で広大な土地の条件を満たしていたのであります。

 それから間もなくして、「陸軍士官学校」「陸軍士官学校練兵場」など9施設が移籍されました。その結果、上溝町、座間町、新磯村、麻溝村、田名村、大沢村、相原村、大野村の2町6村が合併し、面積108.71キロ平方メートル、人口約45000人という当時としては国内最大の「相模原町」が誕生し、軍部計画が押し進められました。

時は移り、今度は米国に支配される米軍基地にされたのです。

 昭和20年8月15日、日本は米国、英国、旧ソ連、中国などに無条件降伏、ポツダム宣言を受託しました。長きにわたる第二次世界大戦は終結しました。それにより、軍都計画は消滅しましたが、軍の諸施設の多くは米軍に接収され、相模原は基地の町となってしまったのです。

 アメリカ軍は旧陸軍甲整備学校を接収し、訓練場区域を除いた部分をキャンプ淵野辺(淵ノ辺)として使用を開始しましたた。当初は横浜技術厰などに勤務する軍人・軍属の住宅施設として主に使用され、事務所や兵舎・家族住宅のほか、倉庫、家具修理工場、軍用犬舎、乗馬場、ピクニック広場、プール、テニスコート、野球場、ボウリング場、PX、図書館、学校(フチノベ・エレメンタリースクール)などが設けられました。

 また、アメリカ国家安全保障局太平洋代表部在日事務所が開設され、アメリカ大使館、府中空軍施設の米太平洋軍電子情報収集センター(PACOM ELINT Center)、また米海軍保安群(USNSGA Kamiseya)、さらに米陸軍保安局日本通信隊(USASACUJ)および第500軍事情報群(500MI)などと連携し、情報収集・諜報活動を行う重要拠点としても機能しました。基地内には複数の受信用ロンビックアンテナが設置され、1960年代半ばには微弱な電波を傍受する際の障害となる雑電波の発生を防止するために、基地周辺の建築物の高さ、機械の操作などを制限する「電波障害防止制限地域」として指定するよう在日米軍側から要求された。これに対して急速な人口増加とともに市街化が進んでいた相模原市では反発が起き、基地の全面返還を求める動きへとつながったのです。

 その活動が成果をに結び、昭和49年11月にキャンプ淵野辺、昭和56年4月に米陸軍医療センターが全面返還されました。そして、相模総合補給廠の一部返還が実現したのです。

 しかし、相模原市内には、現在も未だ座間キャンプなど3つの大きな基地が所在しています。沖縄県同様、相模原市が安全な街に生まれ変われるのは何時の事になるのでしょうか?

 生まれ変わった相模原公園は、県立相模原公園・市立相模原麻溝公園、女子美術大学など7つの施設が集まった延140haの広大な公園になりました。四季折々には、その季節にあった花が咲き、鳥が鳴き、木々が色を染め県民や市民の目を楽しませてくれています。

現在の相模原公園には、三つの見どころがあります。

その一つが、グリーンタワー相模原です。

このグリーンタワー相模原は、第9回全国緑化かながわフェアー「グリーンウエーブ・相模原’92」の開催を記念して建設されました。

 高さは55メートルで、38メートルのところに展望台があります。

この日は幸いにも晴天でしたので眼下に広がるフランス庭園の素晴らしい景色、一面青々とした木々に囲まれた相模原l公園の全貌、そして丹沢山塊に大山、多摩丘陵、スカイツリー、横浜、湘南などの大パラの間が広がって見えました。一見に値する素晴らしさでした。

 その2つめが、フランス式庭園です。

 ここは、陸軍の射撃訓練の跡地で、機関銃や歩兵銃のの訓練をしたそうです。一番奥から見る展望台は、とても小さく、展望台にすら当たるとは思えません。まして、小さな的など不可能ではないかと想像してしまいます。

 庭園は、そんな昔のことを忘れるほど、美しい。

 周り一面は、メタセコイヤに木々で囲まれています。春は緑で、秋から冬にかけては紅葉で美しいでしょう。両サイドは季節の美しい花が植えられた花壇になっています。この日は赤い花が咲いていました。中央には4つの噴水があり、これからの暑い季節には、来場者を涼しさに誘うことでしょう。

 この庭園の特徴は、左右対称となったシンメトリックに構成されていることです。

そして3つめが菖蒲園です。

名前を水無月園といいます。

2327平方メートルの広さの中に100種を超える約30000株ほどの花菖蒲が植えられています。ブルーに白、紫にピンクなどの花が咲き揃う様は壮観で見事なものです。水無月園は2つに分かれていますが、どちらも整然とした人工的な雰囲気の庭園です。里山に囲まれた谷戸の菖蒲田のような風情とは無縁ですが、明るく開放的な雰囲気の中、品種を揃えて巧みに配置された様子は上から見下ろすと幾何学的な美しさも感じられます。

 この日は日差しが強いこともあり、四阿には何人もの人が休み水を補給していました。

相模原公園は、約50種の花があり、毎月何かの花が咲いています。

2017年 第五回 東海道戸塚宿を散策する

*散策日   2017年5月24日(水)9:30~12:30

         薄曇りで、少し冷たい風が頬に吹き、肌を冷やしてくれる。とても歩きやすい一日でした。

<散策コース>

 東戸塚駅 東戸塚駅 → 旧東海道 → 海道 橋 → 赤関橋 → 王子神社 (首洗いの塚)→大山道の不動堂 → 宝蔵院 → 江戸方見附 →  東峰八幡宮 →

  妙秀寺 ー善了寺→大橋→ 戸塚駅

戸塚宿の成立は、  慶長 9( 1604)年 、隣宿である藤 沢、保土ヶ谷の宿が成立した慶長 6(1601) 年に遅れること  3年。日本橋から数えて 5番目の宿場町で あります。 基点 の日本橋からは 10 里半 (約42km)の距離にあり、 朝江戸を発った当時旅人が一番目宿泊地として最適での距離にありました。さらに鎌倉への 遊山の道、大参詣分岐宿として大変な賑わい を見せましたので、宿屋が増えたのです。

藤沢宿は客を奪われることを恐れ、宿場にされることに猛反対しました。しかし、幕府はそれを退け公認の宿場として定めました。

東海道  宿村 大概帳(天保 14 (1843)年頃)によりますと、宿内の人口は2,900人余、家数は 613軒、本 陣は 2、脇本陣は3、旅籠75軒と 、 東海道五十三次の 宿場中では、10番目に宿泊施設の多い宿場でありました。

東海道の宿場の賑いを残すものは、信濃坂にある「一里塚」、戸塚宿の入り口を表す「江戸方見附」跡、江戸時代に大山詣でに多くの人が通った大山道入口に建つ「追分不動堂」と「石碑群」、妙秀寺に移された「かまくら道の道標」と大橋にある「かまくら道分岐点」の看板である。

 そして所々に立つ旧東海道と書いた看板である。

 

信濃坂は、朝早く江戸・日本橋をを立ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には、宿場町までもう一歩のところにあります。さぞかし夕食に心を弾ませ坂を下ったことでしょう。

 一方、江戸に向かう旅人には最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息のところであります。

旅人は、右手に見える海に励まされながら最後の力を振り絞り、江戸へ思いを掛けていたのではないでしょうか。

 今は、写真にある立札がその名残を表しています。

 

 見付とは、宿場の出入り口のことで,ここは戸塚宿の江戸側の出入り口であることを表示しています。旧東海道の宿場に設けられた見付は、 宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らは、ここで行列の隊を整え、宿役人はここで大名を出迎えました。

 慶長9年(1604年)戸に塚が東海道となったことで、この地に戸塚宿の出入り口となる「江戸見付」が置かれました。大阪下バス停 辺りに設置された「上方見付」迄の間の20町19間(2.2km)が戸塚宿と呼ばれ、江戸から10里(40km)、相模国に 入って最初の宿場として栄えました。

 幕末にはこの地に外国人が宿泊可能な「わたや」が鈴木吉左衛門により建てられ、 江戸参府のオランダ人等が多く利用したと伝えられます。

 不動坂交差点の手前100mを右に入ると柏尾通りに出ます。角には大山街道の入り口を記す立札が立っています。それは江戸時代に大山詣でよく通った大山街道の入り口を記すものであります。

 少し中に入りますと、参拝者の安全と無事を祈願するため建立された追分不動堂があります。内には、鳥居に掛けた「阿夫利神社」の扁額があり、台座に「是より大山道」と刻まれた不動尊が祀られています。

 ナビ倶楽部の皆は横の壁の隙間や正面の穴から中を覗き込み「不動尊の怖い目が見えた」と感激の声を上げていました。

 境内には、大山道道標(享保12(1727)年・明治5(1872)年)、庚申塔(延宝8(1680)年)、燈籠(元治2(1865)年、橋供養碑(寛文10(1670)年)があります。

 妙秀寺(日蓮宗)には、 浮世絵師歌川広重の「東海道五拾三次之内戸塚」に描かれている大橋(吉田大橋)の脇の道標・「かまくらみち」が移されています。但し、ここに移された理由は、定かではありません。

 妙秀寺(日蓮宗)の本尊は釈迦如来です。『相模風土記稿』には「延文元年(1356)豊島修理大夫某ガ母開基スト云。開山ハ日修」と記しています。その後の変遷は定かではありません。明治269月に灰燼に帰し、関東大震災でも破損、昭和429月に本堂が再建されました。

 

 

大橋(吉田大橋)は矢部町と吉田町の間、柏尾川に架かる大橋です。歌川広重が「こめや」の看板と「かまくら道分岐点」の道標を描いた「東海道五拾三次之内戸塚」は、この大橋のたもとにあります。戸塚宿を代表する場所の一つで、当時は長さ10間(182m)、幅2間半(4.6m)の板橋でありました。現在の橋は昭和61年に架け替えられたもので、両側に大名行列が持つ毛槍を模した街灯が立っています。また両側に2枚ずつ、計4枚の戸塚周辺の浮世絵が模写されています。

 浮世絵の中に富士山が描かれたものがあります。この日、残念ながら薄曇りの天気でしたが橋の真ん中に立って西を見ますと、川の流れにの向こうに富士山がぼんやりとですが見えました。

 この大橋は、いつごろからあるのか、誰が架けたのか、など、資料がありませんので歴史はほとんど分かっていません。

 単に「近隣では大きい橋」くらいの意味で、それ以上のことは無いようです。戸塚の大橋は、東海道に架かっている橋の中で、神奈川県内で上から10番目くらいの規模でしかないのです。それが戸塚の代表的な景色として定着したのは、歌川広重の浮世絵のせいです

 歌川広重は、元々描いていた役者絵や美人画ではあまりぱっとせず、東海道五十三次で風景画を描くことで大ブレイクを果たしました。
有名な大橋の絵は、歌川広重の東海道五十三次戸塚宿の、記念すべき第一弾だったのです。

 その他に歴史を感じさせるものがあります。

 一番は、東峰八幡大神の境内にあります「椎の大木」です。二番目は、王子神社の「首洗い井戸」、三番目は、鎌倉ハム発祥の地に建つ煉瓦つくりの倉庫でしょう。

 左の写真は、東峰八幡大社にあります「白幡の椎」と呼ばれる大木です。幹の周りは大人4人半が手をつないだ太さがあります。高さも10メートル近くはあるでしょう。

 源義家が奥州へ赴く途中、拝殿前にある椎の大木に馬を繋いだという言い伝えがあります。しかし、とのことを信じるならば樹齢1000年となるのですが、東峰八幡大社は、建設されたのはもっと新しいそうです。社務所に問い合わせますと5,600年ではないかということです。

 秋には椎の実が境内を埋め尽くすのではないでしょうか?

椎の木を見て思い出しました。戦後の食糧事情が良くないとき、子供たちが集まって公園で椎に実を拾い集め、母親にフライパンで炒ってもらい飢えをしのいだものでした。今そんなことを子供がやればたちまち母親から怒られるでしょうね。「止めなさい。病気になったらどうするの」

 戸塚宿には、柏尾川の畔に咲く桜が有名ですが、東峰八幡大社の段葛を模したといわれれます参道の桜並木も春には見事な桜を見ることが出ます。

 また、境内には庚申塔、地神塔など沢山の石造物が見られます。

 王子神社の祭神は大塔宮護良親王です。

 建武2年(1335)鎌倉に於いて護良親王が淵辺義博により殺害されました。お付きの者が、その御首を奉じ、当地の南朝方の豪族斎藤氏を頼り逃れきて、神社の本殿の下に葬ったといいます。その場所を今もお墓と言い、親王の御首の血を洗った井戸を首洗の井戸と呼び、神社の近くに現存します。

 つづきナビ倶楽部では、これまで畠山重忠、源義経とみてきまして3つ目と首洗い池なります。他にないか調べてみました

次の3件しかありませんでした。

 郡上八幡城に「関ヶ原の戦い」で討ち取られた武士の首についた血や泥を洗いった「首洗いの井戸」。両国駅の南にあります本所松坂町公園に吉良上野介小さな小さな屋敷跡があります。その中の吉良の首を洗ったとされる井戸。井戸とは違いますが、石川県加賀市に源平合戦の篠原古戦場に平家の老将・斉藤実盛の首を洗ったという池があります。その他、首塚は明智光秀、近藤勇など24か所の多くを数えます。

 

鎌倉ハムは、英国人ウイリアム・カーチスが1887年10月に戸塚宿に『ハム製造所』を設立し、日本で初めてハムを食卓の届け今年で創業130年になります大変な老舗です。写真は、その時使用していた煉瓦つくりの倉庫です。

 130年の間に多くの試練がありました。

 大正12年の関東大震災で大変な被害を受けましたが、工場を名古屋に移転して操業を開始し乗り切りました。昭和16年に始まりました太平洋戦争では 人も戦場に取られ、工場は軍需工場に転換させられます。その苦境をアメリカ人の貿易商、J・D・ミラー氏と共同経営で乗り切ります。そして昭和30年株式会社鎌倉ハムとして復興しました。
その間に「天皇陛下に献上 」や「宮内庁に献納 」などの栄誉を与えられました。

また「 米国セントルイス万国博覧会に出品。銀杯受賞 」「5回内国勧業博覧会に2等賞牌受賞」「 東京大正博覧会で金杯受賞」「平和記念東京博覧会で金牌受賞 」など数々の賞を受賞しました。

 下段の写真:(左から)カーチス、かね夫人、明治30年頃の外干し製造風景、大正15年頃のソーセージ部門、昭和10年の工場、昭和25年頃の東京の販売所

 

 東戸塚の最大は、歴史ではなく、現在の近隣の住民の悲願を達成した東戸塚駅の誕生でしょう。

 東戸塚駅は昭和55年(1980)10月に開業されました。

これは地域住民の100年にわたる悲願が実現したものであります。何しろ横須賀線横浜~久里浜間の駅間の平均距離は3.6kmに対して、保土ヶ谷~戸塚間は9㎞もありどちらの駅に出るのも苦労させれていました。

明治20年(1887)7月、両駅が開業した直後には、「武蔵駅」という名まで決定していましたが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災でご破算となり、さらに戦争で中断してしまいました。

私事で恐縮ですが、知人が上柏尾近くに住んでおり、昔は戸塚からバスで行ったものです。当時、柏尾から東戸塚にかけては、未開発の山が連なっていましたが秋葉、前田、柏尾町などで宅地開発が急激に進みんだことで、市長が東京鉄道管理局長、国鉄総裁に開設を要望し、地元の「東戸塚駅設置促進運動連絡協議会」が10万人の署名簿を集め官民一体の運動が展開された結果実現したのです。

今では、当時の面影は全くありません。東口は戸塚駅同様に再開発が急速に進み高層マンションや大型商業施設「オーロラシティ」等が立ち並び西口もマンション、住宅街、商業施設等が出来て発展しています。

 

2017年  第四回 舞岡ふるさとの村と舞岡公園を散策

*散策日  2017年5月10日(水)

        今年は、下見も含めて1回も雨に降られていないと会長が自慢していた 

                    のですが、この日は生憎の小ぬか雨で肌寒い朝でした。

        天気予報は、午前中は曇りとのことでしたが、午前中いっぱいふり続

                    け、やんだのは散策が終わり、帰りのバス停「坂下口」に着いた時でした。

                     それでも20名の仲間が参加し、傘を差しながら美しい新緑を満喫しました。

<散策コース>

 横浜市営地下鉄線・舞岡駅~ふるさと村虹の家~舞岡八幡宮~舞岡公園~バラの丸丘公園~けやき広場~旧東光寺薬師堂~小谷戸の里

 ~瓜久保の家~バス停・坂下口~戸塚駅

ふるさとは遠くにありて・・・・・

文明社会となり、高層ビルが立ち並び日本人の心のふるさとである田園風景が都会からどんどん失われています。とても残念でなりません。

 この日散策しました舞岡地区には、その心のふるさとあったのです。

舞岡駅を降り数分歩くと、一気に田舎の原風景が現れます。左手の雑木林からは新緑の香りが風に乗って降りてきます。右手の谷戸には畑が現れきぬさやなどが実りを見せてくれます。そして歩道には真っ赤なストロベリーキャンドルが咲き、流れる小川には色とりどりの鯉が目を楽しませてくれ、せせらぎの音が耳を楽しませてくれます。

舞岡公園に至る途中に「舞岡八幡宮」があります。

 舞岡八幡宮は1302年に起きた白幡が舞うという奇怪な出来事を機に建てられた神社で、明治41年に村内の3つの社を合併してできたものです。

 舞岡八幡宮は毎年4月14日に春の例大祭に「湯花神楽」が行われます。

 「湯花神楽」は、笹の葉の束を持って四方舞の後、釜の湯に笹を浸し、これを左右に振ってしぶきを散らします。このしぶきを浴びることによって邪気を払い無病息災がかなえられるというものです。その後、天狗の面を着け、鉾を持って四方を舞う「剣舞」が行われ、九字を切って呪文を唱え天地を治めます。

 私たちが下見したのはその前日でした。村人たちが集まり、のぼりを立て、階段を掃き清め、湯花神楽を行う場所の囲いなどの準備に余念がありませんでした。

更に歩みを進めていきますと「舞岡公園」に辿り着きます。

一歩中に足を踏み入れると2万8500平米の広さが目に飛び込んできます。目の先には鬱蒼と茂った雑木林の中に沢山の田んぼや畑が広がっています。このような谷戸の景色は、昭和20年ごろの横浜には当たり前に見られましたが、今ではほんの僅かとなっています。

 田んぼと畑では、季節ごとにミニトマト、落花生、さつまいも、大豆、里芋、六条大麦、お米などが収穫されます。

 雑木林は下の写真のように春は桜、初夏は新緑、秋には紅葉と変化をします。

野草も春はナズナ、ノアザミ、ヤマツツジなど48種、夏はキキョウ、ネジバナ、ホタルブクロなど48種、秋~冬にはオミナエシ、ヒガンバナ、アケビの実など48種が楽しませてくれます。

 ホーホケキョ、ホーホケキ・・・・春の訪れを告げる鶯の鳴き声を聞きながら池田池に辿り着きますと沢山のカメラマンがある一点にカメラを向けていました。その先を見ると美しいブルーとオレンジ色したカワセミが止まっていました。カッコウ、カッコウ・・・・カッコウがと夏の訪れを、キィキィーキチキチキチのモズは秋の訪れを、ピープピョロピョロピ・・・・・ヒヨドリが冬の訪れを告げてくれます。「野鳥とのであい」のしおりによりますと夏には10種、冬には60種の野鳥に出会えるそうです。

 鳥の鳴き声でも捉え方によって違うようです。面白い捉え方をご紹介します。

ホホジロ」一筆啓上つかまり候、「ホトトギス」特許許可局、てっぺん欠けたか、一本つけたか。「ツバメ」土食って虫食ってくち渋ーい。

小谷戸の里には完全にふるさとを感じさせる古民家があります。

晴れの日には、持参しましたおにぎりやサンドイッチなど思い思いのお弁当を広げ昼食をとっている人々に出会います。この日は、雨模様でしたので残念ながら来場者自体が我々ぐらいで出会いませんでした。その代り写真にありますように茅葺きの屋根から靄が立ち込めている貴重な姿が見られました。

 売店では、部屋の中でも履ける手作りの草履や藁の馬などが売れれています。作業棟には、「樹木と野草のしおり」「野鳥とのふれあい」などが販売され、「舞の里だより」が無料でもらえます。ボランティアの方々も常駐しており、舞岡公園のことにつては何でも質問に答えてくれます。

横浜市には、自然が残された多くの市民の森があります。その数は43にも上りますが、2017年には新しく44番目の「池辺市民の森」が開設されます。

しかし、その多くは雑木林が主体で田園風景がありません。

 ここ舞岡ふるさと村と舞岡公園は、雑木林と田園の両方を兼ねたまさに「ふるさと」を感じさせる場所でした。

 夜間観察会もあるので、昼間とはまた違う蛍や虫の鳴き声などを満喫できるのでないでしょか。

2017年  第三回 東海道 藤沢の宿を散策

*散策日  2017年4月19日(水)

        異常気象が続く中、この日もまた快晴、気温は20度を超え,真っ青な空には夏を思わせる白い雲が浮かんでいた。

<散策コース>

 小田急江ノ島線・藤沢本町駅前~ 北向き不動尊白旗神社義経首洗いの井戸永勝寺~常光妙善陣屋橋~ 庚申塔藤沢陣屋跡遊行寺橋~ふじさわ 宿交流館~ 遊行寺~バス停(藤沢橋)

 藤沢宿は、東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、 東海道を西へ、四ツ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となりました。その為に慶長6年(1601)に東海道の宿場となりました。後に戸塚宿、川崎宿が追加されたころから東海道6番目の宿場となったのです。

江戸時代の藤沢宿は、「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4089人(男2046人、女2043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています

 藤沢宿は清浄光寺(遊行寺)の東側にある江戸側の見附(江戸方見附)から、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりにあった京都側の見附(上方見附)までの広い範囲であります。今回は西の端であります小田急江ノ島線・藤沢本町駅からの東の端にあります清浄光寺(遊行寺)まで歩きましたので、藤沢宿の端から端までを歩いたことになります。

藤沢宿には三つの有名なものがあります。

   一つ目は、源義経と武蔵坊弁慶の墓があることです。

二つ目は、徳川家康が建設した「御殿」です。

三つ目は、全国でも珍しい「飯盛り女の墓」の存在です。

 

◆1つ目の源義経と弁慶のお墓

  義経も弁慶も藤沢で生まれたわけでもなく、活躍した場でもない。最後の死を遂げた地でもない。実は理由があったのです。

源義経は平治元年(1159年)に源義朝と常盤御前の9男として京都で生まれ、牛若丸と名付けられました。平治の乱で父は謀反人となり敗死。牛若丸はその後に捕えられましたが幼児だったため助命されます。鞍馬山へ預けられますが、僧侶になることを拒否し鞍馬山を脱出。陸奥国藤原秀衡を頼って平泉に下ります。

 治承 4年(1180年)兄頼朝の挙兵に応じこれに属します。1184年(寿永3)兄の範頼とともに源義仲を討ち、平氏を一の谷・屋島・壇ノ浦に討って平氏を滅亡させました。 この間に梶原景時と対立、後白河院と接近して兄頼朝にうとまれ、ついに叔父源行家とともに頼朝に反きましたが失敗します。再び奥州藤原秀衡を頼ります。 秀衡死後、子泰衡のために襲われ衣川で自刃しました。

 文治5年六月6月13日、藤原泰衡の使者新田高平が、13日を費やし義経の首を鎌倉に持参。首実検され間違いないとなり、片瀬の浜に捨てられます。首は潮にのり境川を遡り、ここ領家の里に到着します。あわれと思った里人が泥まみれの義経の首を洗い清め、首塚をつく りました。その首を洗ったというのが「首洗い井戸」で、そこから20メートル北に塚を築いたとされています。60年後、 改めてご祭神として白旗神社へ合祀されました。

 写真は、 白旗神社の「源義経公鎮霊碑」ですが、小さな公園の片隅には義経の首洗い井戸があります。荘厳寺には  高さ53.5センチの黒漆塗の位牌が安置されています。

また、 宮城県の胴塚(義経の名を捨てた場所)には胴体が葬られ、白旗神社、鞍馬寺・義経堂(義経を遮那王尊として祀る。)、北海道の義経神社、高館義経堂(自刃した)にも祀られています。

武蔵坊弁慶は母の胎内に18ヶ月いて、生まれたときには23歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたといいます。父はこれは鬼子だとして殺そうとしましたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられました。生誕は「和歌山県田辺市」「島根県松江市」「紀伊の国」の諸説があります

 鬼若は比叡山に入れられますが、勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまいます。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗るのです。やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会い弁慶は降参。それ以来義経の家来となりました。その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てます。

 義経が京を落ちるのに同行。安宅の関では、偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据え助けます。

 最後は、「弁慶の立往生」で知られる衣川の戦いで、多数の敵勢を相手に義経を守って堂の入口に立ち薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされます。写真は、常光寺にあります「弁慶塚」で、その他に弁慶堂(義経と弁慶の木造が安置)、岩手県平泉・中尊寺の弁慶の墓があります。

2つ目は、藤沢御殿です。

 藤沢御殿は藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定されます。徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿やお茶屋を設置しました。

 江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。

 四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがありました。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあったのです。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいました。総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかであります将軍による藤沢御殿の利用は寛永11年(1634年)が最後であるその後、江戸で発生した明暦の大火(1657年)に伴う江戸城再築のために建築物が取り払われました。天和2年(1682年)には跡地が検知され耕地となり、現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋が残るほか、藤沢市民病院付近には御殿辺などの地名が残っているだけです。

3つ目は、飯盛り女の墓です。

  飯盛り女の墓は、永勝寺の山門をくぐり左手に39基建てられています。

飯盛女は、飯売女や宿場女郎食売女ともいわれ、江戸時代を中心とする日本の宿場に存在した私娼であります。その多くは、東北の貧しい農家から幼ない頃に売られ連れてこられたと言われています。

 江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみで営業が許されていました。17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達しました。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置きました。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女を置いたのです。

 藤沢宿の街道筋に享和3年頃には旅篭屋が53軒、このうち飯盛り女を抱えていたのが27軒、およそ100人位がいました。その旅篭屋の一つに小松屋がありました。永勝寺の飯盛り女の墓はこの小松屋が建てたものです。方3間の墓域に初代小松屋源蔵を中心に39基の高さ60センチの墓石があります。碑面には俗名、出生地、没年が刻され、年代は宝暦11年(1761)に始まり、享和(1801)に及んでいます。駿河地方の出身者が多いのは、初代小松屋源蔵が小松石が産出する韮山の産であることに由来しています。店の貢献度に関係なく、一定の大きさなのが好感もてます。欧米の無名戦士の墓が階級とは無関係に、同じ大きさであるのと軌を一にしているといえます。

 元来このような職業の女の場合には無縁になり、投げ込み寺に合葬さられるのが普通でした。東京三ノ輪の浄閑寺、新宿の成覚寺は投げ込み寺として知られている。浄閑寺には25000体が埋葬されているといいます。

 2、3の当時人気のあった遊女らの墓石はあっても、名もない飯盛り女の墓が、200年余り整然と今も市中の寺にあるのは珍しい。檀家の小松屋が供養を続け、寺の婦人会によって墓域の苔が払われていて、見る者をして感慨を催さずにはおきません。

因みにその小松屋は明治維新に 旅篭屋を廃業して、下駄屋を開業、小松屋の屋号を改め10数年前に喫茶店に転業した。しかし昨年廃業し、事実上江戸初期から続いた自営業に終止符を打ちました。

その他、思いがけないものを発見しました。

 

「赤木の子守唄」で知られる国定忠治の子分、板割浅太郎の墓です。

浅太郎は、 赤城山で忠治と別れた後、仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となりました。のち遊行寺の堂守となり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、自分の叔父の中島勘助とその息子勘太郎を殺した菩提を弔いました。その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となったのです。

 1880年、遊行寺が火災に遭った際、勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、明治26年、74才でその生涯を閉じた

 

2017年 第二回  横浜はなフェスタと桜を満喫

横浜はなフェスタと桜を満喫する散策

 

    <散策コース>

             *時期  4月5日 AM9時30分 東急東横線・元町中華街駅集合

      元町・中華街駅~アメリカ山公園 ~港の見える丘公園~大佛次郎記念館~神奈川近代文学館~韓国領事館~ワシン坂~本牧山頂公

               園~アメリア坂を下さってバス停~横浜駅西口または桜木町駅

 

 日本が外国諸国から開国を迫られていた時代の横浜港、敗戦した日本が強引に米軍住宅に占領された第二次大戦後の横浜の歴史。

 繁栄した日本の現代を象徴するように花々に飾られた横浜、満開の桜が彩る横浜、数々の楽しみが詰まったものです。

 日本の近代化を表すような4階建てのビルの上に公園がある全国初の立体都市公園である「アメリカ山公園」を後にして「港の見える公園」の北側にある「フランス山」に足を踏み入れて驚きました。フランス軍の駐屯地として兵舎3棟が建ち並び300名以上が駐留していた広さにはとは思えなかったからです。とはいえ、1947年に焼失したフランス領事館邸の残骸があり、当時使用していた井戸が残っていますので、フランス軍が駐留していたことは間違いありません。

 「港の見える公園」の広場に出ると、青い空青い海に映えたベイブリッジが見え、中央には西洋館をモチーフにしたミニチュアガーデンが創られ、開国された当時山手通りを再現しています。当時を知らない若い人たち、外国人たちがもの珍しそうに眺め写真に収めています。

 イングリッシュローズの庭には150種、1200本のバラが、香の庭には100種の香りのバラが咲き誇っているはずでしたが、残念ながら時期尚早でした。でもレッドにホワイト、イエローにピンクなど色とりどりの草花による色彩のハーモニーが溢れていました。

  いよいよ今日の目的であります桜の花ですが、「大佛次郎記念館」と「神奈川近代文学館」の間にある谷に見事に満開に咲いた桜が輝いていました。先週見られなかったうっぷんを晴らすように皆さんはカメラのシャッターを切りました。(写真:左からフランス山のモニュメント、ミニュチュアガーデン、草花の色彩ハーモイー、満開の桜)

 神奈川近代文学館を後にしてワシン坂をひたすら下って行きます。降り切った所に湧水ががあります。この湧水は冬は暖かく夏は冷たい。快晴で喉が渇きましたので冷たい水を飲みたいところですが、生活用水で飲み水ではありませんでした。

 本牧通りに出ますと山手警察署前から「本牧山頂公園」「本牧門間公園」そして「三溪園」まで見事な桜並木が続いています。風に吹かれ散りゆく花びらを至極満足して「本牧公園」目指して足を進めました。

 本牧せせらぎ公園入口には、満開に咲いたソメイヨシノが青空に向かって伸びていました。それは見事でした。その横のやや急な階段を上ると本牧山頂公園でした。本牧山頂公園は、1945年から37年間米軍横浜海浜住宅地区として、米国に占領されていました。今ではその面影は全く見られず、桜が咲き誇り、木々がたくさんの緑を茂れせ横浜市民の憩いの場所になっているのです。

 桜広場を中心に数か所に咲く桜は、 2002年にワシントンDC(コロンビア特別区ワシントンの略語)から里帰りした桜から増やした苗木が植樹されたものであります。何か所にも点在するハナミズキは、日本からワシントンDCに友好の桜が贈られて100年を迎えたことから米国から「返礼」として横浜市にプレゼントされたものです

 山頂に立って下を見ると民家が立ち並んでいます。それを見ながら「ああ、あそこもかつては米軍横浜海浜住宅だったのだろうと思い出してしまいました。

 約40分をかけて堪能したメンバーは、アメリカ坂で解散しました。<写真:左から「米軍住宅」「返還の調印式」「本牧せせらぎ公園入口の桜」「桜広場の桜>

2017年 第一回  春を訪ねて  長尾の里めぐり

春を訪ねて 長尾の里めぐり

 

<散策コース> 

JR南武線・津田山駅~緑ヶ丘霊園~東高嶺森林公園~等覚院~五所塚~長尾神社~妙楽寺~(バス)溝の口・梶ヶ谷・宮前平

 

3月15日のミーテングで満開に咲く巨木の桜並木の写真(下段)を見せられ胸をわくわくさせて29日を迎えたのです。

集合は、午前9時半、JR南武線・津田山駅を降り、踏切を渡った所の歩道でした。ところがです。田園都市線・あざみ野駅で投身自殺があり梶ヶ谷まで運転中止になってしまったのです。それでも皆さん熱心でアクシデント怯むくことなく80%以上の会員が集合しました。集まった人にとはしばし桜ではなく苦労話に花を咲かせていました。(下段の写真右端)

 歩き始めてようやく桜の話になりましたが、どの顔も暗ものです。今年は、開花宣言してから雪、雨。風に寒さが重なり満開の便りはありません。この日も薄曇りで太陽は顔を出しません。咲いていないのではないだろうか?不安な予感を増幅させ重い足を前に進めていました。

 「緑ヶ丘霊園」は初めて訪れる人を笑顔にするかのようにある巨木の桜並木は、謝罪するこのようにひっそりと佇んでいました。

「あ~あ」会員全員から落胆の声が漏れたのです。不安が、実感変わった瞬間っでした。(下段の写真2と3)

 皆の足の運びも来る時と比べ遅くなったようですが、東高根森林公園に到着し、少し休息し水分補給すると元気を取り戻しました。

東高根森林公園は、「自然観察広場」「古代芝生広場」「湿性植物園」など8つの広場があります。全部を回りたかったのですが、まだ先がありますので、この日は残念ながら「湿性植物園」「ケヤキ広場」など4つの広場のみになりました。

 会員の皆さんは、湿性植物園に足を踏み入れると、木道の両脇に咲く野草を発見。

 ある会員が指を指して言う。「お、ゼンマイがある」すかさず、植物に詳しい会員が訂正する。「あれは、コゴミにと言って 正式な名称をクサソテツと言いシダ植物の多年草です。冬には地上の葉は枯れますが地下の株は越冬し、春から初夏に渦巻状の新芽が出てきます。食用に採るのはその新芽の部分で、地方によっては「こごめ」と呼んだりもします」

「あれはなんという花ですか」隣にいた女性会員がと声を上げる。間髪をいれずに説明が始まる。

「ムラサキケマンと言いまして越年草です。純白の花がユキヤマブケマン、少し赤ムラサキの部分が残るものをシロヤブケマンといい有毒で食べられません」

 更に説明は続く。「隣あります黄色い花は、ヒメリュキンカといいまして、大元に故郷はイギリスですが ヨーロッパからシベリアにかけて広く分布している野草です。管理センターの方の話では、その他に「ヤブレカサ」「フクジュソウ」「ジロコエンゴサク」など1年間で99種類の野草が見られるそうです。

 そんなやり取りをしているうちに会員の皆さんは、笑顔を取り戻し次の神木山 等覚寺を目指しました。

等覚寺山門の横には下の2番目の写真のようにソメイヨシノが咲いて素晴らしい眺めになるのですが、この日は緑が丘霊園と同様でした。

また、GWには山門から続く境内一杯には数百株を超すツツジが群生して、下の右端のように見事な花園を見せるのですが、まだ時期が早くその横のように緑一色でしかありませんでした。

 等覚寺は、別名「ツツジ寺」とも呼ばれるほどですからGWには、是非見学に訪れてください。

 

今回設定しました散策コースは、等覚寺から五所塚、権現台遺跡、長尾神社、長尾山・妙楽寺を巡るのように設定されています。

 しかし、五所塚に行くには、約100メートルの急勾配の階段を上らなければなりません。平均年齢71.5歳の高齢者には過酷であります。さらに、訪れる中のメインであります「長尾山・妙楽寺」は、「アジサイ寺」と呼ばれるように桜ではなく、花の種類50種以上、約1000株の紫陽花で有名であります。

 運営員相談の結果、ここで第一次の解散をすることになりました。

 皆さん、残念ながら桜は見られませんでしたが、ツツジ、紫陽花、野草など沢山のお土産を持って帰りました。