平成31年・令和元年(2019年)会員43名

  327  掃部山公園・野毛山公園のさくらを満喫する

  403  武蔵中原からニケ領用水と渋川の桜を訪れる

  417  烏山川緑道・史跡(松陰神社・豪徳寺)を訪れる

  508  鎌倉の名越の切り通し・まんだら堂を散策する

  522  海老名の史跡を訪れる 

  612  中原街道(武蔵中原~新丸子)を歩く

  626  多摩川台の遺跡群を訪れる(田園調布)

  918  砧公園と岡本民家園などを訪れる

⑨ 1002  江戸時代に隆盛を極めた目黒不動などを訪れる 

⑩ 1016  橘(たちばな)の史跡を訪れる 

⑪ 1030  上永谷のふれあいの道から馬洗川せせらぎ緑道を歩く

⑫ 1113  つづき()の紅葉を訪ねる 

⑬ 1127  北鎌倉周辺・源氏山の紅葉を散策する

2019年 散策ガイド&資料

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①掃部山公園・野毛山公園のさくら満喫する資料秋山.pdf
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①掃部山公園・野毛山公園のさくらガイド (2).pdf
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①掃部山公園・野毛山公園のさくらを満喫するコース資料島田.pdf
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②二ヶ領用水・渋川の桜を訪れるガイド.pdf
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②二ヶ領用水・渋川の桜を訪れる資料.pdf
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③世田谷烏山川緑道散ガイド.pdf
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③世田谷烏山川緑道散策資料.pdf
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④名越の切通し・まんだら堂を散策するガイド.pdf
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④名越切通・まんだら堂を探訪資料 (1).pdf
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⑤相模国分寺と国分尼寺のガイド.pdf
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⑤相模国分寺と国分尼寺資料.pdf
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⑥武蔵中原から新丸子まで中原街道を尋ねるガイド.pdf
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⑥武蔵中原から新丸子まで中原街道を訪ねる資料.pdf
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⑦田園調布から田園調布古墳群を訪れるガイド.pdf
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⑦田園調布・多摩川台古墳群資料島田.pdf
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⑦田園調布から田園調布古墳群を訪れる資料秋山先生.pdf
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⑧用賀プロムナードから旧小坂邸を散策する.pdf
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⑧用賀プロムナードから旧小坂邸を訪ねるガイド.pdf
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⑨目黒不動ガイド (1).pdf
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⑨目黒不動散策資料.pdf
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⑩橘樹を訪ねてガイド.pdf
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⑩影向寺子母口貝塚 資料.pdf
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⑪上永谷散策ガイド20191020.pdf
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⑪上永谷資料20191020.pdf
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⑫つづき(北)の紅葉を訪ねるガイド.pdf
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⑫つづき(北)の紅葉を訪ねて資料.pdf
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⑬つづき(北)の紅葉を訪ねる

◆催行日 11月13日(水)  集合:中川駅の広場にある筍のベンチ前

 ◆行 程 中川駅―山崎公園(トイレ)―くさぶえのみち(トイレ)―徳生公園―山田富士公園(トイレ)―ふじやとのみちー城山歩道橋―「ゐ」 の石―東山田駅

中川駅広場にあります筍のベンチ、愛媛県在住の零駒無蔵作による「集う人々」の彫刻を見て、横断歩道を渡り左折、直ぐの歩道橋の手前を右折すると銀杏並木が目に入ります。残念ながら枝がカットされ紅葉のボリューム感がもう一つでした。

突き当りを左に曲がると左手にケヤキ並木があります。その素晴らしい黄葉を見ながら進むと突き当りに「山崎公園」があります。

 山崎公園は、レクレーション活動と自然とのふれあいの場を提供する公園として整備されました。また、「せせらぎ計画」に沿って緑道(牛久保水系)の水源地として流や池を設けて有ります。池や運動広場は雨水貯留施設としての機能を持っています。

  公園は、大きく造成された平坦部の“施設化ゾーン”と現況林に被われた山の部分の“保全用ゾーン”に分かれています。

  “施設化ゾーン”は池・運動広場・水遊戯施設などを配置し、外周部はエゴノキ、クイヌギなどを中止とした雑木林を作っています。運動広場周辺にはソメイヨシノ、池の護岸にはハナショウブ、管理棟屋上にはコニファーなどの植栽が行われています。水遊戯施設は、水と大地の広場、屋外プール施設からなり新小松石の石積擁壁に囲まれ、水遊戯の拠点となるゾーンになっています。“保全用ゾーン”は、「緑の環境を最大限に保存する街づくり」として現況林の裾部にはサクラ類を中心とする樹林がつくられ園路沿いや休憩小広場などの周囲は花木を植栽されています。山崎公園の名前の由来ですが、「荏田の地名」(吉野孝三郎著)によりますと、「崎」は前(さき)先(さき)で山の前をいうとのことです。

 左手に桜の広場、正面に大きなプール、右手コンクリートと玉砂利でできた「水と大地の広場」があります。

  水と大地の広場の設計コンセプトは、人間が初めてこの地と出会った時の新鮮な感動を「かたち」にすることで、この地に新たになる歴史の第一ページを開こうとしています。

 「大地」が断層・槢曲(しゅうきょく)を繰り返し、風や水や流れによってつくりだされた、「初源的なかたち」を表現することは、この公園を利用する人々が、現在と過去との時間の連続性を取り戻すことで、新たなる出会いの場となることを意味しています。そうした形を細やかに表現する素材として水、植物、木、石、陶器、金属、ガラスを選びました。例えば、石はその塑性や形状の中の自身の歴史を持っています。山の石、河の石、海の石など、石には風や水によって刻まれた歴史の違いが表情に現れます。そうした石が一つ一つ積まれ埋め込まれるので擁壁や地層文様となります。これらの素材や形と人々を結びつけ、モノとの係わりの中から新しい歴史を作り出して行く役割を持っています。そして出来上がった「と大地の広場」は、有名なスペインのアントニオ・ガウディを思わせる作品に仕上がっている。

  水と大地の広場をぐるっと1周して元に戻り広場の桜を見てせせらぎの道を下ると池です。ガード潜って左に進むと「くさぶえのみち」スタートの立て札があります。

  都筑区には、今回散策します「くさぶえのみち」「ふじやとのみち」など6ヶ所の「せせらぎ」があります。それらどのせせらぎも谷戸の景観を生かして斜面には樹木が植えられ、水が流れるせせらぎがあり水辺には花々が咲いています。また、必ず公園があり「池」が配置され鯉や亀、カモが泳いでいます。

  この様な素晴らしいせせらぎが出来たのには理由があります。それは港北ニュータウン計画の中に「せせらぎ全体計画」というのがあり細部にわたって計画されていたからです。

 その中からポイントをピックアップしてみます。

 ・緑の環境を最大限に保存するとして、雑木林や竹林、神社・仏閣が文化財の一部として保存されている。

 ・緑道に「水」を導入することで緑道沿いの「緑」と調和することができる。

 ・水源は、池に貯留し雨水を放流することを中心にし、ポンプによる循環、盲暗渠や井戸からの補給などと組み合わせる。

 ・施設として、「池」「せせらぎ」「植栽」「藤棚・ベンチ・古い民家の移築などの他施設」

  その計画を実現する方法は、次のようなことでした。

  くさぶえのみち予定地になった谷の南側台地の尾根を削って、その土で谷を埋め立て勾配6%の平場をつくりました。その平場をせせらぎが流れる緑道としたのです。台地の土を、下の谷に直接ブルドーザーで削り落とすと、斜面にある樹木を痛めますので、削った土はスクレーパーで、樹木のない場所を選んで運んだのです

  また戻ってせせらぎを進み、二股の右を行くと道祖神があります。港北ニュータウンが開発されたときどこからこの地に移されたのですが、元の場所は分かっていません。

  くさぶえのみちを暫く歩き紅葉を堪能します。坂道を下った左手に「アメリカフウ」の並木に出会います。アメリカフウは、モミジバフウに良く似ていますが、葉が5つの裂けるのがモミジバフウで3つに裂けるので見分けはつきます。

  更に紅葉を堪能しながら足を進めると左手に小さな池があります。その奥に入ると池の水源となっている湧き水と、何か異様さを感じる木の根の群生がありますのでご覧ください。戻ってくさぶえのみちを進みますと突き当たったところは、徳生公園です。

   徳生公園の中央には大きな人工池があり「くさぶえのみち」で牛久保公園、牛久保西公園、山崎公園と、「ふじやとのみち」で神無公園、山田富士公園と結ばれています。かつてこの人工池では町内会・近隣マンション自治会・ボランティアなどで行われるお祭り「水辺の祭典」が毎年9月半ばごろに行われていました。

  ステージでは、近隣の小中学校の児童・生徒やアーティストなどが歌やダンスなどを披露していました。また日がくれると、池に子供たちが作った灯篭が流され大変賑わっていました。が、運営委員の高齢化のため残念なことに数年前中止となってしまいました。

  また、池には沢山の亀や鯉が泳ぎ、冬には何種類もの鴨が飛来。白鷺やゴイサギも飛んでいました。カワセミがいる池として多くのアマチュアカメラマンが集いシャッターを切っていました。

  それが一昨年テレビ東京が行いました池の水を全部抜く「かいぼり」のお陰でしょうか、昨今では亀も鯉も少なくなり、鴨やサギなどもわずかになり、カワセミも来なくなり誠に淋しい池に変ってしまいました。

  一周する途中の斜面に見事に黄葉したケヤキを見ることができます。さらに進み右手のガードをくぐった先で見事な紅葉に出会います。くさぶえのみち一番の紅葉ではないかと思っています。戻って池の周りを右手に進むと「ふじやとのみち」の案内板があります。ふじやとのみちには、12支の石がある間隔で置いてありますので、見つけながら歩くと面白いです。

 そこから左の坂を上って行くと不動尊があります。その右手に「小椋」の表札がかかった家があるのです。噂では、美空ひばりが歌った「愛燦燦」の作曲家ということですが、それは真っ赤なウソでした。戻って神無公園を左手に坂を下ると山田富士公園です。

  昔、都筑区の地域では、富士山信仰が盛んでしたので、7基の富士塚がありました。今でも残っているのは山田富士の他に「池辺元富士」「川和富士」です。

 富士塚とは富士山を模して築かれた人工の山のこと。本物の富士山に登るのはなかなか難しい時代のこと、この富士塚に登ることによって同じ霊験を得ようと、人々の信仰の対象となって、各地に築かれたのです。

山田富士は、「新編武蔵風土記」に登場し1800年代にはすでに存在していたという古い歴史を持っています。また、富士山に倣って美しいコニーデ型(噴火による堆積物が火口の周囲に積もっていくことで形成された円錐状の火山)です。登山道は“御殿場口”と“吉田口”の二つがあり頂上には噴火口がありお鉢周りも出来ます。頂上部の周囲にはお地蔵様や小さな塚が祀られていて、古くから信仰の地であったことを窺(うかが)わせます。標高46mの頂上からは本物の富士山や丹沢、武相の山々が見え、北側には国際プールが見えます。

 ところどころにあるモミジの紅葉とせせらぎを見ながらくさぶえのみちを東に進みます。途中にせせらぎにかかった小さな手作りの橋があります。これは地元の高齢者が、向こう側にあるスーパーに行くのに近道をするために作ったそうです。とても幅が狭いので落ちないかと心配しながら通り過ぎました。

  暫くして二股の道を右に登ると城山歩道橋があります。渡る途中に太い針金でできた戌の顔が欄干に立っています。12支の石ならぬ針金でした。渡ってから左折し坂を下るとふじやとのみちのゴールで「亥」の石が置かれています。そのまま真っ直ぐ進み、2つ目の十字路を左折。直ぐの交差点を右折。直進すると東山田駅到着です。

⑪ 上永谷ふれあいの道を散策する

 ◆催行日:20191030 日 (水) 集合:市営地下鉄ブルーライン 上永谷駅改札内

 ◆行 程:上永谷駅―永谷天満宮― 貞昌院― 駄菓子屋 ―ふれあいの水辺 ―神明社 ― ヤマダ電器―下永谷市民の森―五山見亭―見晴台―

     常玄寺―舞岡バス停―JR戸塚駅

 上永谷駅・舞岡駅のある 港南区は昭和44(1969)、南区から分区、人口 21 万人・面積は19.86k㎡(都筑区は21 万人27.88k㎡、1994年に港北区から分区)大岡川と、柏尾川の支流である平戸永谷川の上流の谷と台地が細かく入り組んでいます。 区を南北に貫くように、旧武蔵の国と相模の国を分ける国境の道が通っています。国境の道は分水嶺でもあり、東側の日野川・大岡川は東京湾へ、西側の平戸永谷川は相模湾へ注いでいます。

  江戸時代以前は武蔵の農村でしたが、横浜開港に伴い、近郊農業(野菜・花)や養蚕、製陶業や捺染などがはじめられました。 戦後の高成長期に横浜市の拡大とともに大きく変貌を遂げたのです。

  市営地下鉄上永谷駅の改札口を出て、右側の出口2番に進みます。出口2 番の階段を降りると道路に面します。道路に出ましたら、左側に進みます・50 メートルぐらいで京浜急行の斎場のある交差点に突き当たります。その交差点を右折し50 メートルぐらいで環状2 号線の交差点です。その交差点を渡らずに左折します。しばらくして歩道橋をくぐると、左側に永谷天満宮の昇り旗が見えます。そこが永谷天満宮で、菅原道真が祀られています。黙々と耕す牛の像(写真)があります。

 永谷天満宮 (日本三体永谷天満宮)は、延喜2(902)太宰府へ左遷されました、菅原道真が自刻した像三体のうちの一体が、永谷天満宮に菅原道真の子息敦茂の手によって尊像を奉じたのです。後の2体は太宰府安楽寺と河内国土師村道明寺にあります。

  永谷天満宮のすぐ隣が貞昌院です。永谷天満宮内横の小さな木戸を開けると入ることが出来ますが、正面から入りましょう。鳥居をくぐり一旦天満宮を出ますとすぐ左側が、貞昌院の入口です。曹洞宗の道元禅師の像があります。本堂も公開しています。ぜひ見てください。

  慶應4年2月5日(明治元年)夕刻、下永谷の元名主福本興四郎の家に「頼もう」と懇願する若者が訪れた。代々醤油醸造販売の旧家の興四郎が、何用かと問うと、息せき切って「拙者は徳川慶喜の家臣、陸軍総裁 勝安房守(海舟)の手下、平野玉城(ぎょくじょう)と申す者、勝総裁の命を受け、東海道を江戸に向かって進撃する、西郷隆盛の軍勢を探るため当地に参上致したところ、不覚にも官軍数名の斥候に包囲され、暫時身を匿って欲しい」と頼み込んだ。見るからに人品優れた壮者である。醤油椛培養の地下穴倉にかくまった。命を助けられた平野は、明治9年8月18 日、命の恩人福本興四郎家を再び訪れました。平野はすぐれた人格、学識で、初めは寺子屋の師匠、時には四書五経を講じたのです。また、妻(しま)は村人に針仕事を指導、お産の助けもしています。

  明治10 年6月、第三級訓導になる。 明治12 年4月、父兄らの木材、石材、米の提供により永谷学校新築。平野はその落成記念に、勝安房守(海舟)に「永谷学校」の書をお願いした。額は永野小学校の校長室にあります。

  玉城は明治20 年頃まで鎌倉に隠棲し、同24 年7月21 日鎌倉の長谷で死去された。没後、村民は氏に対する恩忘れがたく七回忌の時、古老有志一同は、氏をお慕いし、霊がこの永谷の地に静まることを発願して、子息平野直吉(初代永野小学校長)より玉城の分骨を得、貞昌院墓地に埋葬して墓碑を建てた。又、貞昌院に勝海舟の書「眠雲」を贈呈された。現在その書は貞昌院の寺宝となっている。

写真左から「本堂」「一枚の板を彫った絵」「勝海舟の書」です

 貞昌院を出て左折しすぐのT字路を右折します。すぐに環状2 号線に突き当たります。そこの右側に和の時代を思い出す「駄菓子屋」があります。

 来た道を戻るとふれあいの水辺です。ふれあいの水辺に沿って進み終わったところを右にでて正面のko交差点を渡ります。平戸永谷川沿いに進み神明橋を渡ると正面に神明社(写真)が見えます。そのまま急な階段を登ってもよいのですが、右側に緩やかな階段がありますので、そちらをお勧めします。

 神明社から神明橋まで戻り、そのまま直進してT字路の交差点を渡り右側へ、ヤマダ電器が見えます。ヤマダ電器に寄りトイレ休憩です。ヤマダ電器を出ましたら、環状2 号道路を渡ります。50 メートルぐらい進むと右側に下永谷市民の森入口です。横断歩道の無いので十分に注意して車が途切 れたところで、渡ります。

  常玄寺は、 顕本法華宗妙満寺派(けんぽんほっけしゅう みょうまんじは)で上人が元和2(1616) 赤坂の地に創建、正行院日遠上人(寛永12 年寂)が開山、手狭になったこともあり、平成711 月に舞岡町へ移転しました。

  顕本法華宗は日什大正師によって創建された教団。大正師は1314 年(正和3 年)日蓮大聖人入滅32 年後会津に生れ、19 歳の時に比叡山延暦寺に、38 歳の時3,000 人の僧侶の指導者(学頭)に成るほどの碩学。58 歳の時、会津に戻り後輩の指導に当たりました。66 歳の時、日蓮大聖人御所を読み、その教えに感動し、名を日什と改めます。68 歳の時日蓮大聖人の教えを、正しく未法の世に伝えるため宗を再興したのが、顕本法華宗です。

⑩橘樹(たちばな)の史跡を訪れる

◆催行日 10月16日  集合:野川バス停横 駐車場

 ◆行 程 鷺沼駅3番バス停― 野川下車― 野川明神社― 影向寺―橘樹官衛跡―冨士見台古墳―橘樹神社―伊藤家長屋門―蓮乗院―子母口  

     貝塚―子母口バス停 解散(綱島行き)―高田下車―グリーンライン高田

 バス停・野川を下車し、駐車場の角を右折し、坂を乗り切ったT字路を右折し直進すると右手にあえるのが「野川神明社」です。

  野川神明社は、縄文時代から定住が進んでいた土地であることから、相当古くからの創始が考えられるといわれています。江戸時代には、韋駄天社と称されていたそうです。明治3年には、社号を神明社と改められ、明治41年に神明社、子神社、八坂神社が併合し、神明社となり、野川の総鎮守となりました。

  韋駄天神は、もともとは仏教からきている神様です。お釈迦様の食事の世話を献身的に行ったことから、中国では食堂や家庭のキッチンに祀られることが多い神様です。お釈迦様入滅後は、お釈迦様の舎利を奪って逃走した鬼を走って追いかけ、舎利を取り戻したという逸話から、日本では健脚の神様として有名です。

  昭和54(1979)、野川神明社境内に野川町内会館を建てる為、敷地内を発掘調査したところ、今から約1800 年前(弥生時代後期)の墓地があることが分かりました。この墓は遺体を納めた穴を中心に周りを巾1m 前後の溝で方形に囲ってつくられていることから「方形周溝墓」と呼ばれています。野川神明社の北には影向寺(ようこうじ)遺跡、千年伊勢山台(ちとせいせやまだい)遺跡などの弥生時代の大きな集落が発見されています、ここで生活していた人びとは死後、野川神明社境内の墓地遺跡に葬むられたのかもしれません。

  神明社を右に出てT字路を右折すると左手に「影向寺(ようごうじ)があります。

  影向寺は、創建の年代は白凰時代末期(7世紀末)にまで遡ることが明らかになりました。現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、江戸時代中期の元禄7(1694)に建立されました。

  仁王門には、2018年 11月 3日 の縁日の前に影向寺の山門に、左右二体の仁王像が安置されました。高さは2メートルほど、重さは一体 約400キロの仁王像は、檀家の中里 勲氏が、別に境内に安置した観音像と一緒に寄付したもの。その迫力ある姿はお寺や地域の守護を担う新たな魔除けのシンボルとなっています。

  安置堂には国指定重要文化財の薬師如来像などが安置されています。年に正月元旦より3日までの初詣期間、春秋彼岸の中日(春分の日・秋分の日)113(当山縁日)に内扉(ガラス)越しに参拝することができます。
太子堂には、疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像(鎌倉時代後期)が安置されています。毎年113日の縁日には、聖徳太子を祀るお祭りがおこなわれます。

  鐘楼は当山の古梵鐘は「新編武蔵風土記稿」によれば萬治3(1660)10月に鋳造されて以来 昭和17(1942)までの282年間にわたり時の鐘 法縁の鐘として橘の里一円に響き渡りその任を果たしてきました。ところが 昭和1612月にはじまった第二次世界大戦の激化にともない、時の軍部の命により兵器の材料として没収されて以来、鐘の音が絶えてしまいました しかし梵鐘に熱き思いをよせられた檀家宮田喜平氏の篤志により昭和486月、梵鐘再鋳・鐘楼堂屋根のふきかえ・落慶法要を円成、氏は当山に奇特な貢献をされました。 

  影向石は、当寺の謂れとなった霊石です。奈良朝時代創建のとき、ここには美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。「影向」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地神仏のましますところとして、信仰されていたのでしょう。幾星霜を経て、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえられて、近隣から眼病を患う人々が訪れて、その功験によっていやされました。江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でて、この石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を「影向」とあらためたと伝えられています。

写真、左から「山門」「本堂」「太子堂」「鐘楼」「大銀杏」「影向石」です。

 影向寺の前の道を左に直進し、ピンクとブルーの派手な建物がある十字路を左折すると左手に「たちばな古代の丘緑地」の看板が見える

  たちばな古代の丘陵地は、國史蹟 橘樹官衛遺跡群(たちばなかんがいせきぐん)武蔵国橘樹郡の役所跡である橘樹郡家の跡と、その西側に隣接して造営された古代の寺院跡である影向寺遺跡から構成された古代官衛の遺跡です。広さは1650 ㎡。その行政区域は多摩川の右岸下流と鶴見川下流部に挟まれた現在の川崎市域と横浜市北東部であると考えられています。

  橘樹官衛遺跡群は、地方官衛の成立から廃絶にいたるまでの経過をたどることのできる貴重な遺跡で、その成立の背景や構造の変化が分かり、7世紀か10 世紀の官衛の実態とその推移を知るうえで重要であるとして、平成27 年川崎市初の国史跡に指定されました。

 国史跡に指定された割には、草は伸び放題で単なる原っぱでしかない哀れさである。

  たちばな古代の丘緑地を出て右に直進しT字路を左折してバス通りに出たらまた左折、信号を渡り、右にある坂を上り暫く歩くと四つ角に「富士見古墳」があります。

  富士見古墳は、橘樹神社の裏手の丘にあり、6世紀頃に造られた古墳で当時の有力者の墓であるといわれています。江戸時代まで旧子母口村の一角でしたが、近年になり都市化が進むと、川崎市は古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」と改められました。かって冨士見台は多摩川沿の田園風景の中にそびえる丘であったが、現在は宅地造成や道路建設により削られ、古墳頂上部の一部、高さ3.7m、直径17.5m の部分のみが姿をとどめています。 周りは草がぼうぼうであり、頂上までに道は滑りそう。古墳がかわいそうである。

 富士見古墳横の坂を下りると「たちばなの散歩道」の案内板があります。そこを左折して住宅地を道なりに進んで行くと「橘樹神社」です。

  橘樹神社は、社伝によると「大和武尊が東征の際、海が荒れ、弟橘媛(おとたちばなひめ)はその身を投げ、海を鎮めました。やがて入水した弟橘媛の着衣・御冠の具だけがこの地に流れ着きました」とあります。

  鳥居をくぐると左に2つの碑が立っています。拝殿側の碑が「日本武の松」鳥居側が「橘比兎之命神廟」であります。

  十字路を右折して突き当りの右手に「伊藤家長屋門」があります。伊藤家は、子母口の豪農で鎌倉時代からの旗本高林家が当地の領主だった江戸中期まで、郷代官を務めていました。また母屋も代官屋敷の格式がのこる建物でしたが、昭和39 年に現代風に建て替えられました。今はこの長屋門だけが代官として当地を支配していた伊藤家の歴史を伝えています。

  伊藤家長屋門出て左に進みT字路を左折すると正面に「蓮乗院」があります。

  蓮乗院は、玉川八十八か所霊場札所二十三番、真言宗で小杉村西明寺の末寺です。門を入ってすぐの右手のちょっと高いところにあるのが不動堂です。不動は丈3尺ばかりの立像です。その隣には、馬頭観音堂があり。奥に鐘楼があります。

  正面に蓮乗院本堂があり、御本尊は准提観世音菩薩です。
写真:左から「橘樹神社」「伊藤家長屋門」「蓮乗院本殿」「不動堂」「馬頭観音堂」「鐘楼」です。

 蓮乗院を出て左折し坂を上り突き当りを右折し、 次の三差路の真ん中を進むと「子母口貝塚」です。

  子母口貝塚は、多摩丘陵の標高25m前後の台地上にある貝塚で縄文時代早期後半、約7000 年前のもので、多摩丘陵上で最も古い貝塚です。この貝塚が知られているもう一つは、土器の粘土の中に草などの繊維を入れ、また表面に貝殻で引いた線や竹などにまいた縄を押し付けた文様がある子母口土器です。

  子母口貝塚は東西約100m、南北約150mの範囲にある5つの貝塚を総称したものです。浅い海の砂の中にいるマガキが半分以上をしめ、ヤマトシジミやハイガイに混じ4 / 4って、スズキやクロダイなどの魚骨やイノシシなどの獣骨も見つかっています。子母口貝塚がつくられたころから、縄文時代前期は気候が今よりも暖かく、海が千年(ちとせ)あたりまできていました。これを縄文海進といい、川崎に沢山の貝塚がつくられました。当時、子母口貝塚の眼下には砂浜が広がっていたのです。

 今は、子どもの公園となっており、貝塚を説明した看板が立っていますが、見る人は誰もいない。さみしい限りです。

  来た道をコーラの自販機まで戻り左折します。通り抜け禁止の看板の前を右折し道なりに進むとバス通りに出ます、そこを左折し暫く歩きますと信号があります。その信号を渡り再度横断歩道を渡ると右に終着点の子母口バス停があります。

⑨ 江戸時代隆盛を極めた目黒不動周辺を散策する

 ◆催行日:201910 月2日 (水) 集合:東急目黒線 不動前駅入口辺り

 ◆行 程:不動前駅(東急目黒線)⇒ かむろ坂通り ⇒ 目黒不動(瀧泉寺)⇒ タコと成就院 ⇒五百羅漢寺 ⇒海福寺 ⇒ 青木昆陽の墓 ⇒ 幡竜寺

 東急目黒線不動駅前から、かむろ坂通りに出ます。不動前駅を出て道なりに5分ぐらい行くと、交差点です。右側に牛丼の松屋があります。その交差点を左折し、緩い上り坂のかむろ坂通りを進みます。途中左側に小学校があります。かむろ坂通りを上り切ったところが、かむろ坂上の交差点です。かむろ坂の言われが刻まれたガイド板がたっています。

 伝承によるとかむろ坂の名称は、歌舞伎や浄瑠璃の題目として有名な白井権八伝説にちなんだものです。 江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八が、その後江戸で辻切強盗を働き、その罪で延宝7年鈴ヶ森刑場において処刑され目黒の冷法寺に葬られました。江戸において平井権八と恋仲となっていた吉原・三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい墓前で悲しみのあまり自ら命を絶った。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女であった「かむろ」が目黒へと向かい、小紫の死を知った。その帰り道に当地の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害した。これを偲んでかむろ坂の名称がついたといいます。

 かむろ坂上の交差点を右折し、道なりに緩い坂を下っていくと、途中に参道入口を示す柱がたっており、そのまま進むと小さな交差点です。その交差点を直進すると目黒不動(瀧泉寺)の山門に行きつきます。

 目黒不動尊(泰叡山瀧泉寺、本尊は不動明王)は、808(大同3)円仁天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開かれた関東最古の不動霊場です。寛永年間には徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興され、また歴代の将軍が折々に参詣し栄えました。

 仁王門>

 金剛力士の像を左右に配置した門で、寺院に悪い者が入ってこないように置かれた。何故か、仁王様の裏側に白い狛犬がいます。

 <権八と小柴の比翼塚>

 仁王門左手に丸味を帯びた石碑は、江戸時代に「後追い心中」として有名な権八と小紫の「比翼塚」です。

 比翼塚とは心中した男女のお墓のことです。白井権八がとらわれ鈴ケ森で処刑されたことを聞いた小紫は遊郭から逃げ出し、権八の墓前で命を断ちました。二人を哀れんだ地元の人々が来世で契りが結ばれるようにと、この比翼塚を建てたといわれています。

 <水かけ不動>

 水垢離(みずごり)が難しい一般人でも、このお不動さんが身代わりになって、水に打たれてくださるのです。水垢離は、神仏に祈願する時に冷水を浴びて身を清める行為のことです。

写真左から「仁王門」「本殿」「水かけ不動」

 目黒不動の山門を出て、小さな交差点を左折します。5分ぐらいで右側に成就院が見えます。

 成就院は平安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は、薬師如来像です。俗に蛸薬師と言われ、疫病除けの仏として人々にあがめられています。

 タコの成就院を出て道路を右側に少し進み左折します。100メートルぐらい直進すると左側に五百羅漢寺の入口が見えます。入口には、五百羅漢の一つ 不退法尊者の像が迎えてくれます。

 五百羅漢寺は、元禄8 年(1695)鉄眼禅師が本所で開山しました。明示41 年(1908)現在の目黒に移されました。釈迦三尊像と五百羅漢像305 体が安置されています。五百羅漢像の一つ一つに言葉があります。(一期一会の言葉もありました。)

 羅漢像の作者、松雲元慶(しょううんげんけい)は、元禄時代に京都に生まれ腕のいい仏師でしたが、魂のこもった仏像を彫りたいとの一心から出家しました。大分耶馬渓の羅漢寺で見た五百羅漢に深く感動した元慶は、江戸へ出て、羅漢の制作に没頭します。昼は浄財集めの托鉢に忙しく、ノミをふるうのは夜でした。十数年後ついに530余体の羅漢像が完成しました。この功績を知った幕府の援助で本所にお寺が創建されます。その後、お寺は目黒に移転し、今は目黒の羅漢寺として人気を集めています。

 原爆殉難碑と桜隊

 境内の一角にひときわ目立つ自然石の大きな碑が建っています。これが原爆で不慮の死をとげた移動劇団桜隊の俳優たちの霊を慰める原爆殉難碑です。昭和20年8月6日の朝、広島に原爆が落ちました。石碑に刻まれた原爆殉難の碑は、大正・昭和期の活弁家で随筆家の徳川無声が筆をとったものです。裏は歌人の柳原白蓮の自筆の歌が刻まれています。

 五百羅漢寺を出て道路を左に10 メートルぐらい進むと左側に海福寺の入口です。海福寺の石の大きな表札と提灯が目印です。そこから、15メートルぐらい進むと山門です。中国の明から来た黄檗宗、隠元隆埼が万治元年(1658)に創建し明治43 年(1910)この地に移りました。西欧・シルクロードのデザインを取り入れた墓地の壁画などがあります。

 万治元年(1658)に寺を開いたのは明の高僧で、インゲン豆にその名をとどめる隠元禅師です。初めは江戸深川にあったが、明治43年に水害に遭い、目黒に移ってきました。

 朱色の山門は珍しい四脚門で、親柱2本の他に4本の控え柱があります。宇和島の伊達家から寄贈されたもの、屋根裏に伊達家の紋章が見えます。又、都指定有形文化財の梵鐘もある。(裾の雲形の柔らかい線は、わが国伝統の様式に中国風の柔らかさを加味している。他にあまり類例のない逸品)海福寺境内の一角に、永代橋崩落の水死者の霊をなぐさめるため木場の人たちが建立した供養塔です。

 4(1807)夏、富岡八幡の祭礼中に隅田川の永代橋が、途中から落ち大惨事となりました。橋の下を将軍家の御座船が通過後、橋止めの解除とともに祭りの見物人が殺到、重みで橋が崩れ、多数の死傷者がでました。

 海福寺の本堂裏の通路を通り、墓地を上に向かい、錠の掛かっていない門扉を抜け、右側に10 メートルぐらいのところに青木昆陽の墓があります。

 青木昆陽は、江戸時代中期の儒学者です。名奉行大岡越前の知遇を得て、幕府の図書の管理や収集などを行う書物奉行の要職に就きました。京保17 年(1732)に畿内以西を襲った京保の飢饉の惨状を見た昆陽は、「蕃藷考(ばんしょこう)」を著し、多くの農民にさつまいもの栽培方法を教えました。

 江戸時代中期の儒学者・青木昆陽は、元禄11年(1698)魚問屋の子として江戸日本橋に生まれ、名奉行・大岡越前の知遇を得て、幕府の図書を管理や収集などを行う書物奉行の要職に就きました。享保の飢饉の惨状を見た昆陽は、多くの農民にさつまいもの栽培方法を教えました。当時さつまいもは甘藷と呼ばれていたので、昆陽は甘藷先生と呼ばれていました。晩年は目黒に住み、生前に作らせておいた墓石が目黒不動尊の墓地にあります

 青木昆陽の墓を正面に見て右側の細い道を降ります。突き当たりを左折し20 メートルぐらいで幡竜寺の入口が見えます。そこを入って15 メートルぐらいで幡竜寺の山門です。

 江戸時代中期、江戸では大地震や火事が相次ぎ、人々は不安の渦中にありました。そこで霊雲上人は、江戸の裏鬼門を守る岩屋の弁財天を供養するのがよいと考え、宝永6 年(1709)行人坂の称明院を、この地に移し「霊雲山称明院蟠龍寺」と改名し再建しました。

 山手七福神の一つとして有名な「岩屋弁財天」は、本堂横の石の祠の中に鎮座しています。高さ30cmほどの小さな石仏ですが、もう一体は、岩屋の上の弁天堂の中に祀られています。

⑧用賀プロムナードから旧小坂邸を散策する

◆催行日 98日(水)   ◆集合 930分 田園都市線・用賀駅

 ◆行 程 田園都市線・用賀駅―用賀プロムナード(いらか道。百人一首)―砧公園―世田谷美術館―フラワアーランドー無名塾―静嘉堂文庫

      -小坂緑地・旧小坂家住宅見学―二子玉川駅

この日は生憎の空模様、曇り空で雨の予報でした。お天気を心配しながらも元気よく用賀駅を出発しました。円形階段横のエスカレーターで地上に出て駐輪場を通り抜け正面の青色の「用賀プロムナード」の案内板を左折。 ここから「いらか道」が始まっています。 歩道には、早くも「用賀プロムナード」の特徴であります「百人一首」の歌が刻まれていました。なんと5歩進むと1首が刻まれています。子供のころ家族や友達とやったことを思い出しながら足を進めました。ピラミッド状のモニュメントを見てスーパーOKの先突き当たりを左折し、次の信号を渡り右へ進みましと 「用賀プロムナード」にたどり着きます。

「用賀プロムナード」の道は瓦が引き詰められ、脇には人口の川が流れ、石の橋がかかっているのです。そこはごく一般の住宅地とはかけ離れた異空間でした。十字路で一度途切れるのですが、右折した先には、玉石を埋め込んだ人口の川が続いていました。途絶えたところを左折すると今度は赤鬼・青鬼の面が睨みを利かせていました。ふと、周りを見ますとモミジ並木、秋にはきっと素晴らしい紅葉を見せるのだろうなと心を和ませました。

 「用賀プロムナード」を設計しましたのは、7人の建築家による象設計集団です。彼らは、沖縄県名護市庁舎で日本建築学会賞を受賞しているユニークな集団であります。特徴の一つは、「日本のみち」にこだわりがあります。樹木、草、土、玉石、瓦、木材、水などのやわらかな素材でやわらかな空間を構成し、のどかで楽しい雰囲気をつくりだしていることです。もう一つは「歴史を物語る道」でなつかしく、愛着のもたれるみち 玉石の道、くわ、茶、宿場のようなしかけが、たとえば鎌倉時代からつづいた大山街道を。たとえば、谷沢川のせせらぎをといった事を思い出させてくれることのようです。

写真左から「百人一首」「用賀プロムナード・いらかの道」です。

 環状8 号線に出ましたら右に進み、「用賀中学校」の表示がある横断歩道を渡ると、「砧公園」の正門です。公園内に一歩足を踏み入れるとケヤキやシラカシの木々が目の前に広がります。

  砧公園の前身は、紀元2600年記念事業として都市計画決定された大緑地。戦中は防空緑地。戦後は都営ゴルフ場であった。このゴルフ場は、元日本プロゴルフ協会会長樋口久子が、故・中村寅吉プロの手ほどきを受けた「伝説の地」でもあります。

  木々の間を散策し「世田谷美術館」に向かいまいした。世田谷美術館は有料の「ミュージアムコレクション」と「企画展」そして見学自由の「区民ギャラリー」があります。区民ギャラリーが3室ありましたが、大人と子供の絵が一緒に展示されているコーナーに興味を持ち覗いてみました。大きな発見しました。大人はきちんと描写されて上手なのですが、絵に命が感じられません。子供の絵はとても粗削りですが、生き生きとした命がほとばしっているのです。主催の方にお話ししてみると、「その通りです」と賛同してくれました。

 気分よく世田谷美術館を後にして、広々として芝生を踏みしめながら「子供の森」「チリリン広場」を抜けて「砧大塚」の横を通り出口に向かいました。ファミリーパークは、春であれば満開の桜を楽しめたであろうにと残念な気持ちを抱きながらその先の出口へ向かいました。

ファミリーパークは、春であれば満開の桜を楽しめたであろうにと残念な気持ちを抱きながらその先の出口へ向かいました。東名高速に突き当って右先の横断歩道で高速道路をくぐり左折、フラワーランドの標識を右折。少し進むと生け垣があり、そこが「フラワーランド」

 フラワーランドは世田谷区の「農業公園構想」に基づいて作られた公園で、正式名称は「瀬田農業公園」といいます。

 「農業公園構想」とは、都市化・市街化の進む中で失われつつある農業景観を再現し、これから都会に生まれ育つ人たちに、農業が伝統的に受け継いできた知識と文化を享受できる場を作ろうとする構想です。

 門をくぐると広々とした芝生は奇麗に手入れされ、その周りに色とりどりの草花が植えられています。先を進むと水車がごっとんごっとんと音をさせています。更に奥に進みログハウスを見学、役70種のハーブの香りを嗅ぎ、宿根草の庭をみてバラのトンネルをくぐり外に出ました。

  フラワーランドを 出て右に進み、突き当たりを左折。 次の十字路(自販機・パーキング)右折しT字路を左折すると右手に仲代達矢の稽古場と住居のレンガ造りの「無名塾」があります。稽古風景を見たいと思い交渉しましたが、想像した通り断られました。

 無名塾は、仲代達矢と宮崎恭子の自宅にあったプライベートの小さな稽古場でした。1975年多忙な仲代が不在の稽古場に、夫妻を慕う役者の卵や演劇を志す若者達が芝居談義に集うようになり、そんな彼らに宮崎が少しずつ稽古をつけ、仲代も時々顔を見せ、無名塾は自然発生的に始まりました。

 「素敵な次代の役者を育てたい」と、77年、無名塾は一般公募を開始。塾生の育成、更に、宮崎が脚本演出を手がけ、無名塾の公演がスタートしたのです。そのまま急な坂を下りきり、左折して進みましと右手に「静嘉堂文庫美館」の正門があります。

 静嘉堂は岩崎弥太郎の弟で三菱第2代社長岩崎弥之助とその子三菱第4代社長岩崎小弥太の父子2代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含むおよそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品が収集されています。

  門を入って真っ直ぐ進み谷戸川に架かる橋を渡り左折します。昼なお暗い岡本静嘉堂緑地の雑木林の中を進み右手にある急な階段を登りきるとその先に「納骨堂」があります。これは桜井の師である英国人建築家、ジョサイア・コンドル(18521920)の設計によるもので、明治43(1910)に建てられました。さらに進むと左に武蔵野の面影を色濃く残しており美術館南側斜面の梅園や美術館入口脇のギンモクセイなど、四季折々のさまざまな樹木や花々を楽しむことができる庭園に入る道があります。

  正面には、「静嘉堂文庫」が、左手には「静嘉堂文庫美術館」があります。文庫の建物は、桜井小太郎の設計により、1924年に建てられました。鉄筋コンクリート造2階建スクラッチ・タイル貼りの瀟洒な外観は、当時のイギリス郊外住宅のスタイルを顕著に表しています。

 文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋)、次いで諸橋轍次を文庫長に迎え、書籍の収集が行なわれました。閲覧は、平日の午前10時から午後4時20分まで、無料です。

 美術館は、1945年、小弥太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、1975年、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。閲覧は、展覧会が開催されている期間だけですので、ご注意ください。

写真左から「岡本静嘉堂緑地」「納骨堂」「庭園の梅林」「文庫」「美術館」です。

 門を入りますといろいろな樹木に覆われたまさしく緑地帯です。石段を登っていくと右手に古い木造住宅があります。実業家・政治家であった小坂順の別宅であります。

  小坂は長野市の生まれで、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社取締役社長などを歴任したほか、衆議院議員、貴族院議員を務めています。古美術品のコレクターとしても知られています。

  中に入って見学できますので、見学させてもらいました。古民家風で和室や洋室がありの和洋折衷の作りです。誠に珍しいものを見ました。女中部屋脇の廊下上部には、各部屋に備わった押しボタンで呼び出しができる、女中を呼び出すための呼び鈴がありました。

写真左から「正門」「緑地」「正面玄関」「部屋の見取り図」「床の間」「書斎」です。

入ってきた門を出て直進するとすぐの橋を渡り左折。そのまま直進し、NTT瀬田前の信号の手前を右折します。暫く歩くき「谷川緑道」にでたら緑道沿いに進み、玉川堤通りに出たら右折してそのまま進みますと「二子玉川駅」にぶつかります。

⑦田園調布から田園調布古墳群を訪れる

◆催行日 6月26日(水)  ◆集合  9:30 東横線目黒線・田園調布駅を出て正面カフェの左横

 ◆行 程 東横線目黒線・田園調布駅―旧田園調布駅舎―高級住宅街―宝来公園―多摩川台公園(宝莱山古墳―多摩川台古墳―亀甲山古墳―水生植物園―四季の野草園―あじさい園)―浅間神社―田園調布せせらぎ公園―東急東横線の多摩川駅 解散

今年の梅雨は、空梅雨なのだろうか梅雨入りしてからこれまでに5日間しか雨が降っていない。この日も晴天で朝から温度計はウナギ昇りで25度を超えていた。田園調布駅に集合した35名の高齢者男女は、代表からの「熱中症にならないようこまめに水分補給をしてください」の注意を聞き元気よく出発した。

 出発して直ぐの右手の階段を上り「旧田園調布駅舎」を潜るとバラの花に彩られた小さな憩いの場所がある。その先に4つの路地が放射線状になった田園調布の高級住宅街が広がっていた。旧駅舎は、田園調布駅の地下化に伴い取り壊されたが、マンサード屋根風の姿を惜しんだ住民の活動があって10年後に復元され街のシンボルとなっている。

小さな憩いの場所の正面には「旧田園調布の由来」のパネルが表示されていた。会員は、ミーティングで既に勉強してきたが、再度確認するように熱心に読むのであった。右手の交番を見ながら半周し横断歩道を渡り左から3本目の銀杏並木の通りに入って行った。道の両側には、銀杏並木が続いている。秋はきっと素晴らしい黄葉の景色が見られるのだろうと想像を膨らませながら歩いた。

  昔、星セント・ルイスのギャグである「田園調布に家が建つ」を聞き、憬れの大スター巨人軍の長嶋選手が住んでいるとも聞いていたので1度見たがったがこれまでチャンスが無かった。生まれて初めて見る。興味津々目を皿のようにして見て回った。

 建物の敷地面積が330平米を基準に建てられた言うというから何処の家もとに角大きい。建物も工費は坪当たり百二十万円以上に決められているから皆豪華だ。生活面となると首を傾げる。スーパーは勿論現在生活に欠かせないコンビニが無い。更にレストランや呑み屋も無い。もう一つの驚きは、花が無い。樹木で覆われ森のような自然を作り出しているが、色とりどりの花が咲き誇る楽園では無かった。

 田園調布は、普通の人間が普通に生活する社会ではないのだ。何かが違う。そう考えさせられた高級住宅街であった。

写真左から「旧田園調布駅舎」「有名な作家邸」「超スターの野球選手邸」「豪華な屋敷」

 住宅街の外れに「宝来公園」がある。公園に一歩踏み入れると高級住宅街と違い人工的な佇まいはまるでない。梅、桜、椿、サザンカなど約701,500本の花や樹木など一つ一つが生きたいように生きているように見えた。木々に包まれた公園の中の遊歩道を歩き、鯉や亀、鴨が泳ぐ姿を見ながら池を一周すると藤棚がある。花は終わっていたが、えんどう豆に似た実がツララのように垂れ下がっていた。食べらるが、毒があり食べ過ぎると下痢をするので要注意である。

 出口を出て直ぐの信号を右折し、少し急な坂を上った突き当りが、多摩川台公園の入口。入って左の階段を上ると「宝莱山古墳」である。

 宝莱山古墳は、4世紀前半に構築された関東地方で最古の古墳の1つで前方後円墳である。後円部は3段、前方部は2段の築成であったことが推定されている。

 ガクアジサイの花が咲いている前で外国人が空手の型の練習をしていた。古墳と外国人、奇妙な取り合わせとしばし見入ってしまった。右の階段を上りそして下る道は、宝莱山古墳の真ん中になっている。下り切った所は広場で宝莱山古墳を図解した看板、多摩川台公園の樹木が表示されたボードがある。

 両側をアジサイの花に囲まれながら進むと左手に階段がある。そこを上った右手に「8号古墳」がある。ここから「多摩川台古墳群」の1号古墳まで逆に歩くのである。上がってきた階段を下り左折し再びアジサイロードを進み、橋を渡ると左手に「7号古墳」そして「6号古墳」「5号古墳」「4号古墳」「3号古墳」と続く。「3号古墳」の先にある見晴らし台に入る手前の階段を左に昇ると「2号古墳」がある。その右手に「海南亭」という東屋があり、壁に「下村宏」肖像レリーフと功績を評した名盤がはめ込まれている。下村宏は、多摩川台公園の生みの親なのである。下村は玉音放送の際に内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受託に尽力したことで知られた政治家、歌人・号は海南である。田園調布に住んで以来、多摩川台は下村が最も好んだ散策地であった。未開の古墳群を何とかしようと考え、初代国立公園審議会の議員であったことから当局と掛け合い、国立公園とすることの許可を取り付けた。そして昭和28年都立公園として開園したのである。

写真左から「多摩川台古墳群案内板」「8号古墳跡~1号古墳跡」「下村宏氏肖像」

 階段を下りと途中の右手に「多摩川八景」が紹介された大きな看板がある。実際に行ってご覧になってみては如何だろう。階段を下り切ると先ほどの「見晴らし台」に出る。左手に「多摩川台公園からのながめ」の看板があるので、是非ともこの看板を見てから多摩川を一望して欲しい。たゆたゆと流れる多摩川は昔と少しも変わっていないことが判ります。

 用意された椅子に座り、暫くの間、多摩川の水の流れを見ていた。そのゆったりとした流れに時が止まったようであった。

 見晴らし台を後にして更に樹木の間を進むと左手に「1号古墳」がある。その先を左に曲がり道なりに歩いて行くと「多摩川台公園古墳展示室」がある。左手の受付に「多摩川台公園の古墳群」「雑木林のみちの生物・植生」が冊子に刺さっているので取るといい。「多摩川台公園の古墳群」には、多摩川台公園の古墳群の全体図に個々の古墳の解説がされている。「雑木林のみちの生物・植生」には、宝来公園などの樹木や昆虫、爬虫類などが紹介されている。

 展示場に入ると最初に「マツリの風景・墓前祭」で、太刀を持つ女など祭りに出てくる5種類の埴輪が並べられている。更に進むと多摩川台公園古墳群のそれぞれが詳しく図解されている。大変興味深いのでゆっくり時間を掛けてご覧になることを勧める。

  写真左から「昔の多摩川の流れ」「今の多摩川の流れ」「マツリの風景・墓前祭「宝来山古墳」「多摩川台古墳群」

展示室を出て直進すると突き当りに多摩川が流れその向うに武蔵小杉の高層マンション群が聳え立っている。古代のロマンの世界から現代に引き戻される。左に曲がるとそこは「亀甲山古墳跡」。再び古代に引き戻される。

 亀甲山古墳は54基ある荏原台古墳群の中でも代表的な有力者の古墳であり、東京を代表する前方後円墳の1つである。後円部前方部が削平されているが、旧状を良くとどめている。

規模は、墳丘長102.75m、後円部経66m、前方部幅49.5m、後円部高11.75m、前方部高7.63で墳丘の途中に1段の屁端部を設けた2段築成であった推定される。定かではないが、4世紀後半に築造された古墳と考えられる。この推定年代から亀甲山古墳は、宝莱山古墳に次いで築造された多摩川流域の首長の墓と想定される。

 「亀甲山」の古墳名は、横から見た墳形が亀に似ていることに由来する。

 古墳の前は、広々とした「見晴らし台」になっており、瓦屋根の素敵な四阿があり。その隣には藤棚がある。四阿でしばし休憩、ゆったりとした多摩川の流れ、高層マンション群を眺めると良い。

 先に足を進めると左手の階段の両側にアジサイの花が見えてくる。宝来山古墳から咲いていたアジサイロードは、虹橋で一度中断されたがここで再び復活した。しかも、ブルー一色から赤が加わり素晴らしい眺めである。

階段を上った先に「水生植物園」がある。土日祝日ともなるとザリガニ捕りで親子が賑わうが、この日は水曜日なので数人に留まっていた。だが、水面には白の水連、池のほとりには半夏生が咲き、夏の訪れを感じさせていた。

レンガ造りのトンネルを潜るとその先は「四季の野草園」である。

半円形の四季の野草園には、ガザニア、ハルシオン、ダリアなど数十種の草花が咲き乱れ目を楽しませてくれる。しかも、この花たちは、四季折々に合わせて植え替えられている。歩き方は中央、右回り、左回りとあるが中央をお勧めする。草花を見て階段を上った右に「調布浄水場跡」の看板が立っている。

調布浄水場は、東京都の浄水場として多摩川の水を取水して砂ろ過をしたうえ、ろ過水を大田区の一部に送水する役割を担っていたが、大河内ダム完成後その役割を終えた。

実は「水生植物園」「四季の野草園」は、この調布浄水場が東京都の浄水場であったことを残すため、多摩川台公園の中にろ過池・沈殿池がそのままの形で転用されたものなのである。

階段から見下ろした先は、「あじさい園」。赤に青に白など色とりどりの3千株のアジサイが咲き乱れている。階段を降りると四阿がある。まず、そこから全体を眺めてから左に進み、階段を下り斜面を眺めると右にガクアジサイ、左に西洋アジサイが見事である。ガクアジサイと西洋アジサイの間を昇って広場に出たらアジサイの間を縫うようにして歩く。一番左に階段があるので下りてゆくと左手に小さなアジサイ園がある。植えたばかりのようで小さな花だが、綺麗に咲いていた。

写真左から「水生植物園」「四季の野草園」「あじさい園」

 道路に出たら左折し道なりに進みカーブを曲がると「浅間神社」がある。

  浅間神社の創建は鎌倉時代の文治年間(1185年~1190年)と伝えられる。源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来た。その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した。その際に亀甲山へ登ってみると富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、政子の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。それ以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、この神社の起こりとされている。

 石に刻まれた大祓詞(おおはらえことば)を回転させ、唱えたことにして急な階段を上がると「白糸の滝」「小御岳石尊」勝海舟直筆の「食行身禄の石碑」がある。階段を上り切った左手にある展望台から見える武蔵小杉のマンション群は、映画「メカゴジラ」の冒頭のシーンでゴジラが現れる場面である。本殿に向かう途中の左手に「子産石」、その先に大きな石の「たけくらべ」がある。「たけくらべ」を初めて見た時、樋口一葉の同名小説との謂れがあるのかと興味を持ったが、単純な背くらべであった。正面の本殿は浅間造であり、浅間神社古墳の上に建てられている。
写真左から「滝の白糸」「「小御岳石尊」「食行身禄の石碑」「メカゴジラの登場場面」「本殿」「「子産石」 

  浅間神社を後にして東横線に沿って左に進む。途中に今では懐かしい昭和の大横綱大鵬の屋号のお好み焼き屋は閉じており、「あゆやき」の和菓子を売っている店も建直すようで更地になっていた。更に進み東横線「多摩川駅」を通り過ぎ、「田園調布せせらぎ公園」に向かった。

  田園調布せせらぎ公園はかつて「多摩川園」という遊園地であったが1979年に、次の高級テニスクラブ・多摩川ラケットクラブも2000年に、ともに経営不振で閉園された。その跡地を大田区が取得、公園として整備して開園したのが現在の「田園調布せせらぎ公園」である。

 入口付近は現在工事中である。塀に貼られたポスターをみると文化ゾーンとスポーツゾーンに生まれ変わるようだ。そこを通り抜けるとカシやシイなどの常緑樹とケヤキやエノキ、クヌギ、コナラなどの落葉樹が混在した武蔵野の雑木林が広がっている。

雑木林の崖線沿いに湧水で造られたせせらぎ沿いを歩いてゆくと「ヘビに注意」という危険な立札が立っている。恐る恐る進むと「東京の名湧水57」の立て看板が目についた。その隣にある四阿を右折すると左手に広場がありその奥に地元の子供たちが植えた稲が育っていた。田圃の右手の空間を潜ると左に「第一湧水池」がある。湧水池は、湧水が流れ込んで出来たのであるが、最近は雨が少ないため小さくなったそうだ。

 「植栽移植養成中」の囲いの傍を歩いてゆくと木製の階段がある。そこを上ると滝がある。下見の時は、かなりの量の水が流れ落ちていたが、湧水池と同様に涸れていた。残念な思いを胸に進んだ先にあったのは広いグランドである。グランドの横に休憩所がありトイレも備わっていた。グランドの金網に沿って右に行き階段を降り自然のままの武蔵野の雑木林を歩いてゆく。途中怖い「ヘビに注意」の張り紙がある。本当に出るらしいので要注意である。木製の階段を降り切って左に折れると「第二湧水池」がある。池から右に流れるせせらぎがあるが、このせせらぎは最初に出会ったせせらぎを通って第一湧水池に繋がっているのである。

 原っぱを右に出ると休憩所があるので、脇にある坂を上って行くと出口。その正面が終点の「多摩川駅」である。

写真左から「旧遊園地」「田園調布せせらぎ公園の案内図」「せせらぎ」「稲」「第一湧水池」「滝」「第二湧水池」

⑥武蔵中原から新丸子まで中原街道を歩く

◆催行日6月12日(水)  ◆集合930南武線武蔵中原駅

◆行 程  武蔵中原駅―幾つかの庚申塔・地蔵尊―旧中原村役場跡(泉澤寺のトイレ)―油屋の庚申塔―つけぎ屋の供養塔―「かぎ」の道―西明寺(トイレ)―御主殿稲荷―御蔵稲荷―小杉陣屋跡―石橋醤油店―安藤家長屋門―石橋総本家(原家)陣屋門―丸子通二丁目交差点渡った新丸子駅表示板の前(解散)―新丸子駅(オプション)丸子の渡し跡―大楽院(トイレ)―新丸子駅

 この日は、曇り空で気温21度でしたが、皆さん帽子をかぶり、冷たいポカリなどを魔法瓶に入れ、万全の暑さ対策をして集合していました。

  定刻になりA班から順に出発。中原街道に出て直ぐの交差点をコメダ珈琲店側に渡ります。歩いてゆく歩道の地面には中原村の地形や暮らしぶりが描かれた石のプレートが埋め込められていた。何と「小杉十字路」まで続いていました。プレートを楽しみながら進むと接骨院の前に「旧中村村役場跡」の看板が見に入ります。

  旧中原村役場は、二ケ領用水の神地橋(こうじはし)の手前の右手にあり、明治22年(1889)に橘樹郡の6カ村(上丸子・小杉・宮内・上小田中・下小田中・新城)が合併して誕生しました。

  プレートの他にもう一つ気になったのは、他の地区では見られない庚申塔の多さ。「かぎの道」まで1つの地蔵尊と名前のない4つの庚申塔と「油屋の庚申塔」「つけぎ屋の供養塔」を合せて6個が並んでいるのです名前のない庚申塔の1個は、中身がありません。もし盗んだ人がいるとしたら盗人は、きっと罰が当たっているでしょう。

写真左から「プレート」3枚の庚申塔、5枚目が地蔵尊、そして旧中村村役場跡と続きます

 小杉十字路は、中原街道と府中街道が交差する所で、かつて大名行列や旅商人が行き交う場所でした。上小田中(神地)に村役場ができ、近くに毛織物工場・銀行・信用組合が開設され、料理屋、旅館、床屋、医院などの商店街が形成されました。また東京からいち早く「大売り出し」を導入して、歳の市の大売り出しなどで近隣の村から客を集め「神地銀座(こうじぎんざ)」と呼ばれるほど賑わいました。

  大正15年(1926)東急東横線が開通し、昭和10年(1935)に待望の丸子橋が完成すると、上丸子の都市化が進むことになりました。戦後の中原は中心施設が武蔵小杉周辺に移動してしまい、中原街道の小杉十字路周辺や街道の沿線は、次第に寂れていきました。

  小杉十字路を渡ると中原街道は急に狭くなります。その分歩道は狭くなり白線で区切られているだけ。車の往来は、激しく非常に危険なので細心の注意を払いながら足を進めました。程なくしてT字路の角にあるマンションの一角に「油屋の庚申塔」がある。

 油屋の庚申塔は、古くは油屋の屋号を持つ小林家の角にあったので、このように呼ばれた。青面金剛は手が6本ある仏像で、恐ろしい形相で邪鬼を踏みつけている。その下には、一般的な庚申塔と同じく、三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)の姿が見える。

  かぎの道の手前にある「つげぎやの供養塔」には「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」とあり小杉が宿駅であったことを示している。1848年(弘化5年)、「つけぎや」の先祖、鈴木戸右衛門によって建立された。「つけぎや」は江戸時代から20代続く旧家で、籠屋として創業、附木屋・よろず屋・材木屋などを経て現在はお米屋さんになっている。

写真左から「小杉十字路」「油屋の庚申塔」「つげぎやの供養塔」である。

  供養塔を後にして「かぎの道」を左折、直進すると左手に参道があり両脇には「大日如来像」と「お地蔵様」が立っている。そこは「西明寺」といって、徳川家康が鷹狩の際、中原街道を通るとき休息した寺である。西明寺の創建年は不明だが、弘法大師が東国巡礼に際し、命じて堂宇の建設をしたと伝えられている。

  徳川家康公が天下を取ってからは、居城を江戸に構えたので、江戸に入るため中原街道を通った。江戸に入るためには、多摩川という難所がある。難所は視点を変えれば要害となる。そのために西明寺の前の通りを鉤形に曲げて、防御しやすくし、小杉御殿を建てた。それから徳川家と西明寺は縁が深くなり、西明寺を殺生禁制の地と定め、葵の御紋入りの朱塗りの駕籠が西明寺におかれた。参勤交替の大名などは、川留めで多摩川を渡れず川崎に留まっていたおりなど、この駕籠を借りて他に先んじて多摩川を渡ったといわれている。

  御本尊様は金剛界大日如来だが、その他、不動明王、毘沙門天、弁財天、愛染明王、大黒天、十一面観音菩薩など、多数の佛像が安置されている。また、西明寺は玉川八十八ヶ所霊場第二十番礼所であり、東国八十八ヶ所霊場第九番札所および、準西国稲毛三十三ヶ所観音霊場第十八番札所でもある。なお、川崎七福神の一つとして大黒天をお祀りし、元旦から一週間御開帳し、歩け歩け運動と相まって、賑わっている。

  小杉御殿は、江戸時代の初めから約50年西明寺の山門の右わきにある井出家の横道から、石橋醤油商店の左側の細い道一帯(西丸子小学校一帯)にあった。慶長13年(1608)に建てられ寛永17年(1640)に御殿が建て直され、約1万2千坪(約4万平方m)の広さになった。小杉村名主安藤家に残されている「小杉御殿見取り絵図」によると、御殿の表御門は中原街道に面し、左手奥に将軍が休む「主御殿」。北川の門をくぐると、「御蔵」と「御賄屋敷」が見え、主御殿の東側に「御殿番屋敷」や「陣屋」、そして代官屋敷が並んでいた。

  散策した日、運よく在宅していました住職に境内や本堂を案内していただき、説明を受けて西明寺を後にして小杉御殿の歴史探訪に向かった。
写真:上段の左から「仁王門」「山門」「弁財天」「塩地蔵」「観音堂」「本堂」「鐘楼」です。

  最初は、「小杉御殿跡」で西明寺を出て直ぐ左折し、1本目の路地を左に曲がると突き当りだった。

 小杉御殿は、江戸時代の初めから約50年西明寺の山門の右わきにある井出家の横道から、石橋醤油商店の左側の細い道一帯(西丸子小学校一帯)にあった。慶長13年(1608)に建てられ寛永17年(1640)に御殿が建て直され、約1万2千坪(約4万平方m)の広さになった。小杉村名主安藤家に残されている「小杉御殿見取り絵図」によると、御殿の表御門は中原街道に面し、左手奥に将軍が休む「主御殿」。北川の門をくぐると、「御蔵」と「御賄屋敷」が見え、主御殿の東側に「御殿番屋敷」や「陣屋」、そして代官屋敷が並んでいた。

  戻って左折し十字路を左に曲がって直ぐの細い路地を右折して進み、更に右に曲がると「御主殿稲荷」がある。少しもどって左折、人が一人通れる位の路地を進み突き当りを右に行くと広い道である。右折し暫く進むと先ほど通った十字路にぶつかるので、左折しゴミ捨て場の所にある路地を左に進むと「小杉陣屋跡」である。米の増産のために徳川家康が江戸各地に新田開発を推進したとき、多摩川からの農業用水路の建設を進言し小泉次太夫がその拠点としたのが小杉陣屋。

写真:左から小杉御殿跡、御主殿稲荷、小杉陣屋跡である。 

 小杉陣屋を後にして次に向かったのが、中原街道沿いにある「石橋醤油店」

 中原の地で石橋醤油店が醤油作りを始めたのは、明治3年。昭和26年に操業をやめるまで、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が立ち並んでいたが、今では駐車場になりその面影もない。

 中原街道を丸子橋に向かって足を進めると、陣屋町のバス停の左に「名主安藤家長屋門」(写真)がある。幕末に建てられた寄棟造り、瓦葺きの木造平屋建てである。門の両側に部屋が設けられ、中央の屋根の部分が中二階になっている立て方だが、門の中に入れないので分らない。

 安藤家はかつて小田原北条氏に使えたとされる。北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落すると土着・帰農し、江戸時代には近隣一体の名主たちを代表する割元名主を務めたという。

  更に歩を進めると「石橋総本家(原家)陣屋門」に出会う。

 原家は、江戸時代に野田の醤油かす、北海道のニシンのしめかすなどの肥料を売る店を始めて大きな財を成した。そして9代目の文次郎が、小林三左衛門と共に玉川銀行を創業し初代頭取となり西明寺参道の前に本店を構えた。大きく発展したが昭和7年銀行法改正により閉行となる。その後、東急の創業者五島慶太に頼まれ東横線の用地買収に奔走するなど活躍。その文次郎氏か明治22年(1889)から24年の歳月をかけて母屋を大正3年(1913)に完成させた。総檜造りの母屋は平成13年(2001)に川崎市の重要歴史建築物に指定され、現在多摩区の川崎市立日本民家園に移築されている。

  当時、原家は広い土地を持っており他人の土地を踏まないで川崎大師や綱島まで行けたとか?武蔵小杉のイトーヨーカ堂、東横病院、大西学園、法政二高などは原家の土地だとも言われている。その後、原家は農地改革などにより経済的に苦境に陥る。復員した10代目正一は、料亭を営んだという。

 原家の長い陣屋門を入り旧原家母屋跡、お社、ショーウィンドに飾られた大正時代の丸子の渡しの「観光」「娯楽」の紹介記事を見て昔をしのび中原街道を西に向かって歩き出した。途中、中原街道の碑や家が2011311日の大地震に見舞われて東日本の復興を祈願した造形物に出会う。暫く歩き東急新丸子駅の案内板がある所でオプション組と駅に向かう組みと分れた。

写真:左から「陣屋門」「ご神木」「お社」「大正時代の娯楽」下段は「旧母屋」「旧玄関」「旧居間」「旧応接間」である。

 オプション組は、中原街道を更に西に向かい東急東横線のガードを潜り、綱島海道と交差する道を右に進むと多摩川の堤防に出る。そこの階段を上ると真鍮で出来た「丸子の渡しの碑」が眼に入る。その先は、多摩川淵の広大な緑が続いている。休日ともなるとサッカーやバーベキューに興じる家族連れでにぎわっている。隣りの距離が長いゴルフ練習場では、高齢者が練習に励んでいる。

 「丸子の渡し」があったのは、現在の大田区田園調布本町と川崎市中原区上丸子八幡町を結ぶあたり。元禄年間(16881704)にそれまで上丸子村が運営していた渡しの渡船権を二子村の大貫市郎兵衛が買い取って個人での運営を開始したという。その後、渡船権をめぐるいざこざを経て、1765(明和2)年より、上丸子村、下沼部村と大貫市郎兵衛の三者で共同運営することとなったようだ。因みにこの大貫家は、かの岡本太郎の生みの母・岡本かの子の実家でもある。
 丸子の渡しは乗客を運ぶことはもちろん、古くは牛、馬、荷車や人力車なども運搬。東京(江戸)から肥料となる糞尿を運び、川崎からは梨や桃、野菜などが東京(江戸)の市場に運ばれたという。時代が移ってからは自動車の運搬も行われた。

  昭和に入って自動車の普及が進むにつれ、増水すると渡し止めになってしまう不安定な渡し船ではなく、自動車でも安定的に川を渡ることのできる道路への要望が高まった。そうした要望を受けて、1931(昭和6)年に丸子橋の架橋が決定し、翌1932(昭和7)年に着工、1935(昭和10)年5月の開通となった。

 「丸子の渡し」は1934(昭和9)年12月に、ひっそりとその役目を終えた。

写真:左から「川崎市の丸子の渡し跡」「世田谷区の丸子の渡し跡」大正時代の渡し船の写真2枚

⑤ 海老名の史跡を訪れる

 ◆催行日  5 22 ()     ◆集合時刻と場所 海老名駅 (小田急 中央改札をでた所)

 ◆行 程  海老名駅-中央公園・七重の塔-音坂-大けやき-国分寺・尼の泣き水供養塔-逆川記念碑逆川のルート-逆川の船着き場跡-

         相模国分尼寺-相模国分寺跡-海老名温故館(解散)-海老名駅

 前日の午前中は暴風雨の天気でしたが、今日は空を見上げると青い空が広がり、すっきり晴れて気持ちの良い散策日和でした。会員の皆さんの普段の心がけが良いからかでしょう。
 中央改札前の広場、VinaWarkを中央公園に向かって歩き始めましたいやー驚きました。20年近く前に来た小さな駅を想像でしていたのですが、余りに大きく賑やかであったので・・・。

 もう一つ驚いたのが、極採色に塗られたショッピングモールと「七重塔」のモニュメントでした。このモニュメントは、平成4年(1992)市制20周年記念に市のシンボルとして建てられたもので、奈良時代にあった相模国分寺の伽藍の一部だった七重塔の3分の一の縮小したレプリカなのです。昔は奈良の大仏も金ぴかだったそうで、色彩が無くなったのは鎌倉時代に武家の信仰として華美を禁じる禅宗が広まったことが主な原因だそうです。 ...

 少しもどって左手の通路を進み厚木街道に出て左折します。「音坂」の道標を過ぎて直ぐに左に曲がって坂を上ると緑が大きく生茂った「大ケヤキ」です。その横に「おあしす通り」の看板があります。おあすしとは「オおはよう、アありがとう、シしつれいします、スすみません」のことで皆さんに謙虚な心を持って生きましょうという運動での標語です。その右手奥に「相模国分寺」の階段が見えます。

  音坂の名の由来は、坂を登り切った所に旅人相手の旅籠や料亭があり、そこで使われていた井戸の水を汲み上げる音が、坂に響き渡ったことから呼ばれるようになったそうです。大ケヤキは、当時このあたりまで相模湾が深く内陸に入り込み、入江になっていた頃に漁師が舟をつなぐために植えたケヤキの木が根付き、枝を張って成長したものと伝承があり、「逆さケヤキ」ともいわれています。

  相模国分寺は、幕末には荒廃、1910年に消失していたが、1974年に現在の場所に再建したものです。境内には重要文化財の「梵鐘」「尼の泣き水供養碑」があります。

  梵鐘は、鎌倉時代の1292年に国分次郎源季頼が国分寺に寄進したもの。口径に対して高さがあり、胴部の膨らみがほとんどないので、全体にすっきりした形をしている珍しいもの。第二次大戦の際にも金属類の没収から逃れられた貴重なものです。尼の泣き水供養碑は、若い漁師と国分寺尼寺の尼さんの悲恋の伝説によるものです。

写真左から「大ケヤキ」「国分寺本堂」「尼の泣き水供養」「鐘楼」です。

 国分寺は、高台になっているので西を見ると大山連山が見えていました。

 大ケヤキまで戻り右折し、坂を上り下っていくと途中に道祖神がありますが更に下ると三角州のような場所に逆川記念碑」があります。

 逆川は7 世紀のころに造られた人口の水路です。目的は、海老名耕地に水を流す為と水運の為に目久尻川の上流に堰を築き別に水路を造り記念碑がある所から北に逆流させたのです。地図の碑がありますので見て確かめてください。この時代、人間の力と道具だけで造り上げとは凄いものです。

 交差点のすぐそばにセブニレブンが眼に入りました。下見の時に気付かなかったので、終わりまでトイレがないと思っていましたのでホッとしました。

 逆川記念碑から横断歩道を渡って戻り暫くして右折します。そこは 逆川を暗渠にした上の道です。ビワの実や草花を見ながら歩いてゆくと右手に「伊勢山大神宮」の看板が目に入りましたが急な階段を上らなければならないのでスルーしました。そいて国分南1丁目13の表示があります電柱を左折、 道なりに進んだ所が「船着き場跡」です。

 階段を上がり、右に進み相鉄線の踏切を越えてすぐ左折。線路伝えに進むと白い杭で行き止りになりますので、右折し北に300m ほど進むと広々とした公園です。

 その公園の中に国分尼寺金堂跡の石柱が立っており「国分尼寺跡」であることが記されています。石柱の周り三本の大きなケヤキが生茂り祠などがあり尼寺があった名残りを残しています。五月の中旬には大きくて見事な八重桜が満開になりますので一見の価値があります。この日は、沢山のムク鳥が、餌をついばんでしました。

 「国分尼寺跡」から来た道を踏切まで戻ります。踏切を渡って右手に250mほど進み、ラーメン横浜亭の角を左に曲がり住宅地の道を南に進みます。150m ほどで左側の雑草の中に「大型建物跡・区画溝」の表示板が立っています。そこから国分寺の敷地であることの証明です。そのまま進むと右側に国分寺そばがあります。日本風の家屋で落ち着いた雰囲気で美味しそう。メニューを見ると値段もリーズナブルでしたが、海老名温故館との約束がありましたので先を急ぎました。

  左手は、芝生がキレイな広大な公園です。そこが「国分寺跡」に着いたのがAM11時半近く。丁度、海老名温故館のボランティアの方から相模国分寺跡の説明を聞く時間でしたのでそのまま海老名温故館に向かいました。

  海老名温故館の1階には、縮小した相模国分寺の模型や発掘された土器類、2階には当時の衣、脱穀機などが展示されていました。それらの説明を受けた後国分寺跡に戻り、次のような説明を受けました。

  寺域は2万坪と大変な広さであり、周囲は「回廊」がめぐらされていたこと、「七重塔」は高さが65mであること、広場に残る礎石の上には「金堂」が立っていたこと、塔と金堂の中間に「講堂」、講堂の北側に「僧坊」があったこと、そして国分寺、国分尼寺は聖武天皇が仏教による国家鎮護のために日本各地に建立させた寺院で、その国分寺のシンボルが「東大寺」と「大仏」、国分尼寺のシンボルが法華寺であり、地方における仏教文化発信の中心であったことなどでした。

 詳しい説明を聞き、皆さん満足して足取りも軽く海老名駅に向かったのでした。

 写真左から「国分寺の模型」「出土された土器」「相模国分寺跡」「金堂跡」「ボランティアの説明を聞く会員」です。

④名越の切通・まんだら堂を散策する

◆催 行 日    5月8日(水)  ◆集合場所と時間  A・B班9:30 鎌倉駅東口交番横、C班9:45逗子駅改札

 ◆行   程    A・B班 鎌倉駅-大巧寺-本覚寺-八雲神社-上行寺-安養寺-妙法寺-安国論寺-名越切通大町口-  

                     まんだら堂やぐら群-大切岸ー妙性寺-バス停妙性寺-逗子駅

              C班   逗子駅バスー亀が岡団地北-名越切通亀が岡団地口-第一切通-まんだら堂やぐら群-大切岸ー

              妙性寺-バス停妙性寺-逗子駅

 私は、つづきナビ倶楽部に入会して5年になりますが、出発地点を違えたの初めてでした。少々不安もちながらの散策でした。

A・B班コース

  この日はまさに五月晴れ、散策するには鎌最高に日和でした。

皆さん元気鎌倉駅交番前を出発。中央にある屋根付横断歩道を渡り、そのまま歩道を直進。鎌倉八幡宮に通じる道路のスクランブル交差点を斜めに渡ると最初のお寺「大巧寺」です。

  山門を入って四季折々の花が咲く草木の道を進んでゆくと左手に本堂があります。この寺は、別名「おひめさま」と呼ばれる安産の御利益がありますので、お子さんのために参拝して如何ですか?

  裏口を出て直進し突き当りを右折、歩道が狭いので車には十分注意して歩いて下さい。前方に見える門の右が「本覚寺」です。

 本覚寺には、日本刀剣史上もっとも有名な刀工の一人「正宗の墓」とお寺に珍しい「目のお守り」があります。

  覚寺の左外れにある「夷堂橋の石碑」には、流れる川の名が「夷堂川」であり、掛かる橋が「夷堂橋」であることが明記されています。

 写真左から「大巧寺」「本堂の天井の絵」「本覚寺」「正宗の墓」「目のお守り」です。

  夷堂橋を渡り正面の看板にある八雲神社の矢印方向に進んだ先の「大町四ツ角交差点」を左折。「古美術店」「青い3階建て住宅」などを楽しみながら歩いてゆくと、左手に鎌倉最古の厄除けの社である「八雲神社」の看板が立っています。この神社には、「井戸埋祓」(いどうめばらい)と東京オリンピックの聖火台と同じ人物が鋳造した「天水盤」、「森羅三郎の手玉石」という変ったものがありますが、今回は参拝せずに通過しました。

  そのままバス通りを進むと右側に「上行寺」があります。上行寺は癌を初めあらゆる病を封じてくれるというご利益で知られています癌を心配されている方は、持病に悩んでいる方は、お参りすると良いでしょう。

少し先の左の「安養寺」には国の重要文化財の「石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)」があるが、有料でもあり通過しました。

 写真左から「安養寺」「八雲神社」「天水盤」「上光寺」です。

  そのまま足を進め、二差路に立つ安国論寺の看板の方に入り、橋を渡って直ぐ左に曲がり川沿いを進みます。花も無い殺風景な道を進み「交差点注意」の看板がある十字路を右折します。閑静な住宅街の道を進み、T字路の左角にある「妙法寺」の立札に沿って左折。その先に「妙法寺」がありました。

  妙法寺は、美しい苔の石段、日叡の父である護良親王(もりながしんのう)のお墓、頂上からは由比ヶ浜の素晴らしい景色が見られますが、護良親王のお墓に辿り着くのに約200段の急な階段の上り下りするのは厳しいのと、参拝するには有料であることから通過しました。

  立札まで戻って左折し暫く進み、左先に見えた石碑に沿って左折すると「安国論寺」

 「寺の謂れ」「境内霊場案内図」を読んでから山門を潜り300円を支払いました。ここから25分間の自由散策としました。

  境内には、本尊がある本堂、日蓮上人が「立正安国論」を著した草庵、日朗上人が荼毘にふされたというお堂、日蓮聖人が襲われたとき難を逃れたという南面窟、日蓮上人が日々、富士山に向かって法華経を唱えた富士見台など見学。また、お寺を囲むように繁って言う木々の美しい新緑を満喫しました。

  山門を出て直ぐ左の「猿田彦大神」の石碑の前を過ぎ、せせらぎ沿いに足を運びます。突き当ったら左折し広い通りに出て横須賀線の踏切を渡り「名越切通」の表示板を左折。名のない川沿いを歩くと2つ目の踏切「名越坂踏切」です。線路の右前方には、まんだら堂の下を抜けるトンネルの入り口が見えます。踏切を渡って直ぐ右折、線路伝いに進むと「名越切通」の入口に到達です。

写真上段・左から「本堂」「本堂の中」「草庵」「南面窟」です。下段は「第一切通」「やぐら群」「五輪塔」「やぐら群から見た相模湾」

やぐら群横の細い坂道を上り、金網で囲まれた「無縁諸霊之碑」を通り過ぎ、ごつごつした道を歩き、階段を上るとその先は平たんな道です。歩いてゆくと「法華宗 日蓮大上人」と書かれた大きな石に出会います。この道は「法性寺」に繋がっていて、日蓮上人が浄土教信者に襲われた時の逃げ道である証だそうです。更に坂を下ると「大切岸」「法性寺」の道しるべに出会ったら「大切岸」方向に進みます。「石廟」を見て更に坂を下り「大切岸前面平橋」の看板の矢印に従って行くと、何段も削られた壁面が眼前に現れます。それが「お猿畠の大切岸」です。数十メートルに渡って続く壁面に圧倒されます。

  二俣の分かれ道に戻り、「法性寺」を指す矢印に従って左折。坂道をどんどん下って行き眼下に現れた墓地を見ながら更に下ります。左手にやぐらが現れたところが、「法性寺」の裏口です。

  アスファルトの細い道を歩き二股を左に進みます。正面に「日朗菩薩御廟所」その左に「祖師堂」があり、その横の小さな階段を上ると「御避難の法窟」、鳥居の階段を上がると「山王権現祠」があります。そこから見ると素晴らしい青い太平洋が眺められます。

日朗菩薩御廟所」の右の階段を下りると階段が二つに別れています。右に下り左に進み、道なりに坂をどんどん下って「法性寺」の本堂を見て、休憩所で少し休憩しました。ふと時計を見ると1227分発逗子行きまで15分足らずしかありません。小走りに坂を下りて頑張り何とか間に合いました。。

 写真左から「大切岸」「祖師堂」「御避難の法窟」「「山王権現祠」です。

③ 烏山川緑道・史跡(松陰神社・豪徳寺)の散策

◆催行日:2019 年4 月17 日 (水) 集合:東急世田谷線 若林駅入口辺り
◆行 程:若林駅(東急世田谷線)⇒ 烏山川緑道⇒ 松陰神社⇒ 世田谷城址公園⇒ 豪徳寺⇒勝光院⇒ 世田谷線上町駅(解散)⇒ オプション:区立郷土資料館(大場家代官屋敷)

  三軒茶駅から東急世田谷線に乗って2つ目の若林駅で降りました。ここは改札口がありませんので、ホームからそのまま外に出て線路を渡り反対側に出ます。

  東急世田谷線は、昔の玉川電鉄で都電荒川線とともに東京都内に残っている軌道線であります。全線が新設軌となっていて、都電とは違い道路上を走行する併用起動ではありません。

  この世田谷線は、電車が来たら環七の交通を止めるのではなく、信号が変わるまで電車の方を待たせる仕様になっており、「信号待ちをする電車」は当路線を代表する光景の一つとなっています。

 そのまま直進し100メートルぐらい進み天神橋を左に入ると「烏山川緑道」です。烏山川緑道は、かつて世田谷を流れていた目黒川の支流の一つで1970年代に全面暗渠化されました。全長約7キロあり、千歳台にある千歳温水プールあたりから、三宿の北沢川緑道との合流地点まで続いていて天神橋は中ほどに当たります。

  綺麗に整備された烏山川緑道には、カイズカイブキが生茂っていました。この日は曇りですが、湿度が高くむっとする温かさでしたので、救われる気持ちになりました。途中の谷中橋を突っ切り松陰橋の所で左折し、200メートルぐらい坂を上った右角に松陰神社の看板と下に松陰神社の扁額が見えました。扁額は、明治41年に一の鳥居に架けられたもので、地震により落下し現在は事故防止のためそのままとなっています。

  松陰神社は、幕末の思想家・吉田松陰が安政の大獄に連座し処刑されたのち、高杉晋作・伊藤博文らの手によって、1863年小塚原・回向院よりこの地(長州藩別邸)に改葬されました。その1882年松陰神社が創建されました。

  吉田松陰像や萩にある幕末の英傑たち高杉晋作や伊藤博文、久坂玄瑞などが学んだ松下村塾が復元されているからでしょうか、松陰神社はとても静かで心が落ち着くのが判りました。

写真左から「本殿」「松下村塾」「吉田松陰像」「吉田松陰・伊藤博文・久坂玄瑞など計6名の墓」

 松陰神社の一の鳥居を出て、来た道を烏山川緑道の松陰橋まで戻ります。松陰橋につきましたら左折し、烏山川緑道を世田谷線宮の坂駅方面に歩きます。松陰橋から青葉橋まで7つの橋(厚徳橋⇒杉大門橋⇒山堰橋⇒勝橋⇒品川橋⇒稲荷橋⇒城下橋)を歩くのですが、美しい八重桜の道、せせらぎが流れる道、源平桃が咲く道、いろいろな猫の置物が並ぶ道、両側に草花が咲く道・・・橋と橋の間によっていろいろ違う顔を見せてくれます。楽しんでいると青葉橋にでます。交差点を右折し直進すると「世田谷城址公園」です。

  世田谷城址公園は、今からおよそ450年前、この世田谷の地方を治めていた吉良氏という武将の居城でした。世田谷城は、城といっても天守閣はなく、湿地や川や森林など自然を利用して深い堀や石垣を作り城の備えとしていました。

  天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏が滅びるとともに、吉良氏も力を失い廃城となりました。

 世田谷城址公園の案内板に向かって左側に100メートルぐらい進むと大谿山(だいけいさん)豪徳寺」です。豪徳寺参道の入口には、八重桜が事に満開の花を咲かせていました。歴史ある大きな松並木の参道を進むと山門に突き当たります。山門を潜った左手に三重塔、正面が拝殿、その左横が招福殿、奥に納骨堂右隣に本堂、その後に開祖堂、拝殿の右に鐘楼があります。

  境内は広々としており、青々とした木々が繁り、松陰神社とは違った心の安らぎを得られるでしょう。また、豪徳寺は招き猫発祥の地とも言われ、招福殿には何百もの招き猫が並び、三重塔の2階にはとても可愛い招き猫の彫り物があります。大きな福が授かるでしょうね。

  豪徳寺は、世田谷吉良氏の城跡で、寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が、井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。

  また、三重塔の奥には、井伊家代々の藩主の墓があり、江戸時代幕末に開国をした大老井伊直弼の墓所として都の遺跡に指定されています。

写真左から「参道の松」「三重塔」と「彫られている猫」「本殿」「鐘楼」「主井伊直弼の墓」

  豪徳寺の参道に戻り、大谿山豪徳寺の看板の前の道路を渡り、道路を直進するとすぐに世田谷線の踏切があります。そのまま踏切を渡り、直進すると五差路に突き当たります。(前方に竹林が見えます)五差路を斜め左側に進み細い道路を100メートルぐらい進み小さな交差点を右折すると「勝光院」です。

  天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提を弔うために,小机の雲松院から曹洞宗の僧である天琳達を招いて再興し、順康の法名にちなんで勝光院と呼びました。勝光院は吉良氏の菩提寺であり、吉良氏代々の墓や歴代住職の墓があります。

  本堂の右手にある「梵鐘」は、太平洋戦争の金属没収にならず生き残ったものです。

写真左から「本殿」「鐘楼」「竹林」です。

  勝光院の山門を出て直進するとT字路に突き当たります。右折し前方のスーパーオオゼキの赤い看板の方向に進みます。スーパーオオゼキの前の通りが世田谷通りです。そこを左折し進むと世田谷線上町駅にあたります。

 今回の烏山川緑道・史跡(松陰神社・豪徳寺)散策は、ここが終点で解散しました。

2019年 ②二ヶ領用水・渋川の桜を訪れる

◆催行日:4月3日(水) 集合:南部線・武蔵中原駅(改札を出て階段下のスーパー前)

◆行 程 武蔵中原駅ー長福寺ー神明神社ー常楽寺ー春日神社ー二ヶ領用水ー高顔寺ー泉澤寺ー今井上町緑道ー渋川ー住吉神社ー元住吉駅

 武蔵中原の駅を出て信号を渡りそのまま直進し右角にある「カフェLipe」を右折しました。富士通研究所の壁伝いに住宅街を進むのですが、道幅は狭く歩道が無いのに車が通るので危険だから右側によって歩きました。突き当った所が「長福寺」(写真)です。

 長福寺は、戦国時代以前の創建と思われ、玉川八十八ヶ所霊場めぐりの二十五番です。

 因みに玉川八十八ヶ所霊場とは、旧荏原郡・橘樹郡・都筑郡・多摩郡世田谷領の4ヶ郡からなる八十八ヵ所霊場です。

 本尊は大日坐像12寸くらいで作者は不明、薬師は行基の作で秘佛と言われている。

 行基(ぎょうき)は奈良時代の僧で、広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬されました。当時、朝廷は直接の民衆への仏教の布教活動を禁じていました。その禁を破り布教を行ったことで朝廷から弾圧や禁圧される。逆境を跳ね返し大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)となり、奈良の大仏造立の功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられた人物です。

 大きな樫の木に驚き、本堂、観音頭、六地蔵を見てまわり山門を出て右に進み、突き当りを左折しました。右手に桜が見えた場所が「神明神社」です。神明神社はその昔、村の中央にあって多くの崇敬者を集めていましたが、今では殆ど人影を見られないといいます。

 来た道を戻って住宅街を進み、一つ目の十字路を左折。「上小田中八丁目33」の看板があるT字路の角を右折。直進してニケ領用水」に掛る「薬師橋」を渡りそのまま進むと府中街道に出でます。信号を渡り進み突き当ったところが「常楽寺(まんが寺)」の門柱です。

  今回、そこから境内に入らずに左に進み「聖観世菩薩」を拝み、その横の「春日山常楽寺」の石碑を見て七福神、六地蔵、まんが筆塚、亀甲竹そして本殿に出ました。

  常楽寺は、別名まんが寺と言われる程有名な漫画を見ない手はありません。事前に見学の予約を取っていましたので、住職の了解を取り本殿内に入りました。驚きました。「童心」「明治」「大正」「昭和」の間に分かれた本堂の襖や壁、欄間に所構わず沢山の漫画が貼られていました。その漫画の全てが、田中角栄と周恩来の握手、小野田一等兵の帰還、人類初めて月の到着したガガーリンなど弘法大使の絵電気や明治元年から昭和までの世相を象徴する社会風刺で、一つ一つの漫画を見ながらその時代が蘇りとても楽しい時間を過ごしました。

  常楽寺は、真言宗智山派の寺で、今から1000年ほど前の奈良時代に聖武天皇の祈願所として開基されました。境内は沢山の珍しい樹木に囲まれて野鳥の極楽地だったようです。

  元禄二年に再建された本堂は、1967(昭和42)年に解体修復工事が行われました。完成した1968(昭和43)年が明治100年だったことから常楽寺に縁のある35名の漫画家のうち太平洋戦争で生き残った漫画界の大先輩が音頭を取り本堂65坪を漫画で一杯にしてやろう自分の描いた作品を奉納してくれたのです。その数400人、2000点以上。このことに喜んだ土岐秀宥住職がお寺に「まんが寺」という愛称を付けたという。日本で唯一のまんが寺で、川崎市で唯一の重要史跡と天然記念物に指定されています。

  土岐秀宥は、住職になる前は、大政翼賛会川崎支部に勤務していたサリーマンであった。住職はテレビに出演する事4、50回にもなり、有名人であった。

 「日本のまんがの元祖は、平安時代の鳥羽僧正の描いた鳥獣戯画です。だから私はまんがを寺に置くことにしたのです。現代の劇画は置きませんよ。まんがは、ユーモアと風刺と芸術性のあるもののことを言うのです。今の劇画にはそれがありませんからねえ」と住職は語っている。 

 常楽寺の素晴らしさを十分堪能し、隣接した「春日神社」に向かう。常楽寺に繋がる禁足地から入れるのだがそこから入ると裏口入学です。一旦外に出て正面から入りました。神社本殿を参拝し、左横に掲げられた「神威無窮」(しんいむきゅう*天地ともに永遠に極まりなく続くの意)の看板を読み、奥にある「鎮守の森」(県指定天然記念物)を見学。

  春日神社は、創建時期ははっきりしていないが、承安元年(1171)につくられたと推定されている。

  この地域に春日新宮と呼ばれていた神社や新御願寺がありました。春日新宮は、稲毛荘の荘園領主である九条家(藤原北家流で五摂家の一つ)の氏神である奈良春日大社を、稲毛荘が成立したときに分祀したものと考えられ、春日神社の前身にあたります。

 春日神社には、県の重要文化財に指定されている「鰐口(わにぐち)」が伝えられています。鰐口は径30cm、厚さ10cmの銅製で、応永10年(1403)に藤原氏景・繁森によって鋳造され、春日宮に奉納されました。この「鰐口」は、現在は近くの市民ミュージアムに所蔵されています。
 また、神社本殿の裏側はシラカシ、アカガシ、ケヤキなどの常緑樹が鬱蒼と繁る鎮守の森(県指定天然記念物)となっており、その一角には古墳の石室が保存されているほか、勾玉も発見されているので、この地は古代よりの歴史を秘めた貴重な土地として市の重要史跡に指定されています。

ニケ領用水・薬師橋まで戻り、手前を左折します。漸くは、満開に咲いた見事なソメイヨシノを満喫しながらニケ領用水沿いを歩きました。

  二ヶ領用水(にかりょうようすい)は、1611年(慶長16年)に徳川家康の命を受けて小泉次太夫の指揮の基、14年の歳月をかけて完成させた用水。当時は、機械など全くない時代。ひたすらクワやスキで土を掘り、モッコに入れて運び農民が血と汗を流して造り上げたのです。

  二ヶ領用水は、多摩川などを水源とし、川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる全長約32km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路です。かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水ですが、時が流れ高度経済成長により急激に都市化が進み、工業用水などに使用目的が変わったのです。

  暫くして左側に「宮内四丁目3」の表示がある民家の石塀を左折。府中街道に出て右折すると右手にお寺の屋根が見えきます。少し歩くと右手に「高願寺」の山門に出会います。

  高願寺の山門を入ると左手に「紅しだれ」、右手奥に「本堂」、左手に「至心学舎」です。

  髙願寺は、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を挙げ鎌倉へと進んだ後、足利尊氏との鎌倉争奪戦の戦乱の影響を市内で被り、その家臣の霊を弔うための草庵として始まったのです。時期は、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 16031609(慶長814)年の直前です。

  本堂は、1753(宝暦3)年に焼失、翌1754(宝暦4)年3月に上棟したが、再び1982(昭和57)年2月、火災により本堂は焼失し、1987(昭和62)年に再建されました。この時、造作したお釈迦様の一生が本堂の欄間に金色に輝いています。

  この日は、事前に訪れることを伝えてありましたので、住職から釈迦如来の誕生から涅槃になるまでを欄間の飾りに合わせて説明頂き大変有意義な時間を過ごしました。

  至心学舎(しんしがくしゃ)は、1873(明治6)年、「宮内学舎」と名づけられた川崎市で最も古い寺子小屋です。授業料は、1ヶ月46厘で男15人 女38人 計53人の生徒が学んでいました。のちに、「宮内学校」と改称され、1901(明治34)年「小杉学校」「丸子学校」とが合併されて「尋常中原小学校」が創設されました。つまり、髙願寺は、宮内の学校教育の発祥の場なのです。

 高願寺の山門を出て右に進み「こすぎごてんみどり歩道橋」を潜り、直ぐ右折するとニケ領用水の立て看板に出会います。ニケ領用水の歩み、むかし中原は桃の里だったことなどが書かれているので読んで左に曲がると直ぐに「神林橋」(こうじばし)がある。橋を渡って歩くと右側に「泉澤寺と門前市」の看板に出会います。そこが「泉澤寺」です。

 正面に「本堂」、左に「鐘楼」、横に「観音菩薩」と「観音堂」があります。

 泉澤寺は世田谷領主・吉良家の菩提所として延徳3年(1491)に多摩郡烏山の地に創建され、その後焼失しました。天文19年(1550)、吉良は上小田中の現在の地に泉澤寺を移して再興しました。その後、延享2年(1745)に罹災し、安永7年(1778)に今の本堂を上棟したのです。

 再建された本堂は、入母屋造(いりもやづくり)銅板葺。内陣部分は小壁(こかべ)・頭貫(かしらぬき)より上に彩画・彩色を施し、荘厳な空間を構成しています。

 多摩川を控えた政治・交通上の要地でもあったために泉澤寺は要塞化していったそうで水堀もありました。今は近くを流れる二ヶ領用水が、水堀の名残です。また、境内にある鐘楼は、敵の侵入を防ぐ番屋を兼ねていたそうです。

 山門を出て右に進み横断歩道を渡り、再び神林橋に戻り右に進むと二ヶ領用水に沿った親水緑道で、「今井上町緑道」です。綺麗に整備された緑道には、約290mに渡って満開の桜が咲いていました。緑道を歩いたり水辺まで降り下から観賞したり、用水に泳ぐ鯉を見たりして十分桜を堪能できました。

  今井上町緑道を過ぎて暫く歩くと右側に小さな「クローバークラブ」の立札がありその横に「今井神社」がありますが、外から見てそのまま通り過ぎました。府中街道を越えて進むと水門に出会います。二ヶ領用水は先まで続きますが、右に曲がって「渋川」に進みました。

  渋川の両側に咲き誇る咲く250本桜は「住吉ざくら」として愛されています。

  今井上町緑道の桜に勝るとも劣らない見事な住吉桜は満開で、それは素晴らしい。桜橋を過ぎてすぐ右に階段があるので下りて、渋川を右に左に歩き両側に咲く桜を満足ゆくまで堪能しました。後ろを振り返ると武蔵小杉の高層マンション群が見えます。高層マンション群をバックにしての満開の桜という素晴らしいシチュエーションにカメラを何回も向けシャッターを切りました。

  渋川沿いにある法政大学第二中・高等学校、川崎市立住吉小学校を通り過ぎ暫くすると武蔵野線の高架壁にぶつかります。右に曲がり道なりに進み、住吉神社参道に入り右にある「楠本質店」の看板のある電柱を右折すると「住吉神社」です。

上段が、「今井上町緑道の桜」、下段が渋川の「住吉桜」です。

2019年 ① 掃部山公園・野毛山公園のさくらを満喫する

◆催行日:2019 年3 月27 日(水) 9:30 集合:地下鉄高島町駅 (改札を出て地上出口)
◆地下鉄高島町駅→戸部大通り商店街→岩亀神社→掃部山公園→横浜能楽堂→神奈川奉行所跡→伊勢山皇太神宮→成田山横浜別院・野毛山入口の擁壁→野毛山公園→配水池(解散)地下鉄高島町駅

 お参りした後、右に進んだ角に「掃部山公園」の矢印がある標識がたっているので、そこを右折すると大きな桜の木が目に飛び込んで来る。そこが「掃部山公園」である。

  テレビのニュースで東京は満開との情報があり胸をワクワクさせ、正面の大きな桜を見ると残念なことに7分咲きと言うところ。その先はきっと満開と願いながら日本庭園に進み横浜の象徴である「ランドマーク」を背景にカメラを構えた。日本庭園の横道を登る途中に歌人斎藤茂吉の直門弟子である飯岡幸吉の歌碑」がある。

  坂を上り切ると広場になっている。ランドマークは何処からも見え、桜とマッチングしたカメラスポットである。真ん中には、横浜の港を睥睨するように「井伊掃部頭直弼」の銅像が立っている。

  井伊掃部頭直弼は、皆さまも良くご存じの江戸城桜田門外で暗殺された彦根藩主であり徳川幕府の大老である。何故、大老の銅像がここに建っているかというと日米修好通商条約を締結し、横浜開港の総責任者であったからである。

  掃部山は、江戸時代までは海に面した高台で、「不動山」と呼ばれ、明治初期になると「鉄道山」と呼ばれた。それが旧彦名藩の士族らが買い取って伊井家の所有とし、横浜開港50年記念に井伊直弼の銅像が建立されたことで、直弼の官位である掃部(かもんのかみ)から、「掃部山」と呼ばれるようになった。

写真左から「飯岡幸吉の歌碑」「井伊掃部頭直弼像」「ランドマークと桜」2枚

 銅像の脇道を下って行くと直ぐ右手に「横浜能楽堂」がある。これは、旧加賀藩の藩主前田斉泰の屋敷にあったものが移された。本格的な能楽舞台で2階の展示廊には、能装束や楽器などの能楽資料が展示されている。当日は、舞台があり見学することは残念ながらできなかった。

  道なりに下って行き広い通りを左折。豪華なマンションを観ながら歩くと左側に県立青少年センターがある。その前に神奈川奉行所跡」の碑と説明盤がある。この場所が選ばれた理由は、開港場と外国人居留地が一望できたこと、また港を挟んで反対側にある山手の丘に居留民保護の名目で駐留する、イギリス・フランス両国の軍隊を監視できたことであった。

  その直ぐ先に観測100年を記念して建てられた金星太陽面経過観測記念碑」がある。金星が太陽の全面を通過するという珍しい現象が起きたのは、明治7年(187412月9日のこと。日本はこの観測の最適地であったので世界各国から大勢の天文学者が渡来し横浜、神戸、長崎などに大規模な観測体制が敷かれた。横浜にはメキシコ隊が観測にあたった。

写真左から「能楽堂」「神奈川奉行所跡」「金星太陽面経過観測記念碑」である。

 そこから少し引き返し横断歩道を渡り、モミ坂を下り高い石垣の角を右に曲がる。坂を下った所に満開の大島桜が大きく聳え立っていた。早速、カメラを向けシャッターを切った。そして坂を上った右に「伊勢山皇太神宮」の大きな鳥居と階段が眼に入る。入り口の鳥居にある桜は、6分咲きだったが、次の鳥居ソメイヨシノは本当の満開。その奥に本殿があり素晴らしい風情である。

  横浜に伊勢神宮があるのは、次のような理由がある。

  開港場となった横浜は、貿易の街として急速に発展していった。だが、住民たちは、急速な近代化と共にキリスト教を始めとする舶来の文化や思想の流入により、日々急激な価値観の変動にさらされた。また、当時の住民たちの大半が他地域からの移住者であり、隣人同士の繋がりが希薄で地域共同体としての機能が低かった。

  そこで神奈川県は、横浜の精神的支柱とするためと「市民」としての価値観、一体感を植えつけるために神社信仰の確立が必要と考えた。 そして武蔵国の国司が使命によって伊勢神宮から勧靖したと伝わる、戸部村海岸伊勢の森の山上の神明社を同年4月に現在地の野毛山に遷座し、横浜の総鎮守としたのである。

  今では「関東のお伊勢さま」と親しまれている。

  階段の左には「伊勢山碑」「蒋公碑徳碑」正面奥に「本殿」その左に奈良県の三輪社の大神神社の御分霊「大神神社磐座」野毛地区の氏神様「杵築宮子之大神」がある。

写真左から「伊勢山碑」「蒋公碑徳碑」「3番目の鳥居」「本殿」「   塔」「

参拝した後、正門の階段を下りて目の前の路地を入り道なりに進む。右手に新築の真新しい本殿がある。そこが野毛山不動尊で知られる「横浜成田山」である。

  横浜に成田山御別院が設けられたのには訳があった。

 日米通商条約の締結により港が開かれ、一漁村であった横浜は全国各地から押し寄せる移住者を吸収して一躍国際港の街となった。
 移住者の中に成田不動尊を信奉する東京や千葉の人々が非常に多く、成田山大本山に遙拝所を設けることを願い出た。その甲斐あって明治3年に遙拝所が設けられたのである。
 遙拝所の本尊には成田山の観音院の不動明王像を遷座奉安した。これが当院の開創である。

 「高島易断」で名高い高島嘉右衛門より広大な敷地の寄進を受け、成田山教会所が設立された。そして明治10年、遙拝所から御本尊を移し奉り、明治26年、寺号を「成田山延命院」とし今日に至っている。

  丁度11時の護摩開始の時間に着いたので拝見することにした。

   護摩は、信徒と参拝者さまざまな願いを、護摩祈祷を通じ本尊不動明王に祈願する儀式である。人々の心から生ずるむさぼり、怒り、愚かさという煩悩をお不動さまの智慧の炎で焼き浄め、諸願の成就を祈る真言密教の秘法である。

住職が横浜成田山の縁起を話し終わると「護摩焚き」が始まった。読経が本殿の中に響き、護摩が焚かれ、太鼓が叩かれる。その音は、お腹の底に響いてきた。

 護摩焚きで身も心も洗われ清々しい気持ちで次の目的地「野毛山公園」に向かった。まず、昭和のレトロを感じさせる細い路地の階段を下り、広い通りに出たら左折すると横断歩道がある。そこを渡ると亀の甲らの形がした石が積まれた旧平沼仙蔵邸の「亀甲石積擁壁」がある。構築は明治中期で鼈甲石積の施行精度は、市内随一と言われている。

亀甲石積擁壁にそって緩やかな坂道を登って行くと「野毛山公園」到着する。

  正面に野毛山公園・動物園の見取り図の看板があるので、何処に何がありその道順をしっかり頭に入れてから左手にある階段を上ると良い。

  上る階段に沿って植えられた桜は満開でここまでストレスを感じていた桜への不満が解消された気分になる。それも束の間、女流俳人の「中村汀女」の野毛の早春を読んだ句碑がある広場にある桜はまだ五分咲きでまたストレスを感じてしまった。汀女は、文芸雑誌「ホトトギス」の同人として俳壇で活躍した。

  その右手に「ラジオ塔」がある。これは、ラジオの契約が100万人を越えた記念として日本放送協会が建てたものである。昭和七年のことで、テレビやスマフォで育ってきた現在の人には想像もできないことだ。

  そんなことを思いながら坂を上って行く。もう一つの桜の見所に着いたがここも五分咲き。気を取り直して側に建つ「佐久間象山顕彰碑」を見詰めた。佐久間象山は、信濃の松代藩士で幕末の兵学、洋学者で開国論者である。幕府の下田開港を批判、横浜開港に奔走した。だが、元治元年(1864)京都三 木屋町で尊王攘夷派の武士に暗殺され、明治維新を見ることもなく一生を終えた。

写真左から「 亀甲石積擁壁」「中村汀女」の歌碑」「「佐久間象山顕彰碑」「野毛山公園の桜」

 佐久間象山碑を出て左に進み突き当りを左に坂を下りる。「野毛山動物園」で家族が見学しているのを観ながら進むだ階段を下り横断歩道を渡る。バス停を過ると野毛山動物園の入り口です。今回は、オプションにして全ての見学が終わってからゆっくり桜と動物を楽しむことにして野毛のつり橋を渡り、「旧野毛山配水池」に向かう。

  横浜は、開港以来、悩まされてきた水不足を解消するため明治20年(1887)に日本最初の近代水道を創設し、野毛山に浄水場が完成した。その後、関東大地震で壊滅し1926年に浄水場の跡地が公園として整備され野毛山配水池が完成された。

  浄水場は、横浜の市街路と最も高い所と約20メートルの落差がある上に作らなくてならない。また、高さだけでなく市民と外国人の生活と工業用及び消防用などを含めた量を浄化し配水する池を作る広さが必要であった。

  野毛山公園は、面積が91000㎡、標高が38mと適正であったころから浄水場は作られたと考えられる。

 配水池入り口の側に「水道のみち トロッコの歴史」の立札がある。それは相模川上流から送られてきた40㌔の終点を表すものである。その先には、日本最初の近代水道である横浜水道の設計と工事を行ったH・Sパーマーの記念碑がある。少し先に昭和39年東京オリンピックに横浜市三ツ沢競技場で開かれたサッカー、バレーボール、バスケットボール(予選)を記念して設置された「オリンピック記念碑」がある。55年前、日本中を沸かせたのが女子バレーボールの日本対ソ連の決勝戦。殆どの国民がテレビ画面に釘付けになって東洋の魔女を応援。私も手に汗を握りながら応援し、勝った瞬間両手を上げて万歳したことを思い出していた。見学の最後となったのが、展望台。エレベーターで3階に上がると横浜ベイブリッジからマリンタワー、ランドマークタワー、伊勢佐木長者町駅付近、磯子駅周辺、上大岡まで一望できる素晴らしい眺めである。また。「吉田新田」ができるまで」と「横浜のまちづくり」の案内板があるので是

非見て欲しい。絵とスケッチと文字で紹介されているので良くわかるからだ。

  展望台を後にして「野毛山動物園」に向かった。

  この日は、春休みとあって子供連れの家族が大勢押し寄せていた。その仲間に入ってレッサーパンダから始まってライオン、トラ、キリン、フラミンゴ、孔雀などを見て回っている最中である。突然、物凄い声が鳴りだした。何が起きたかと声のする方に駆け付けると「アカエリマキキツネザル」(マダガスカル島)の喧嘩であった。動物園に来たのは何十年ぶりか思い出せない程。久しぶりに童心に帰ってぐるっと一周。所々に満開に咲いたソメイヨシノも見られ満足して1日を終えた。

写真左から「野毛山公園の桜」「H・Sパーマーの銅像」「東京オリンピック記念碑」「野毛山動物園入口」「野毛山動物園の桜」